2013年07月01日
人生創造について.2
刻々と流れゆく時の中で 変化を周りに感じながら 生き物はみな 一生懸命に生きています。
人は たくさんの思いを 自分の内面に巡らせながら たくさんの創造をし 人生というスクリーンに
様々な物語を 投影させています。
人生の主人公は みな自分です。
そして自分なりのオリジナルな 人生ストーリーを作りながら生きています。
その人生のストーリーは 本来自分で好きに作れます。あなたが思う通りに作れるのです。
しかし そのストーリーの筋書きに 自分が思ってもいないことが書き込まれることがあります。
人生物語の創作において 知っておかねばならないことが 二つあります。
私はスピリチュアル ライフ アドバイザーとして 人生を10円玉に例えてお話することがあります。
10円玉が道に落ちていると 10円玉が落ちていると認識しますね。
その時 人は 10円玉の裏の面が見えているのか 表の面が見えているのか 気にも
止めることは おそらくありません。
ただ茶色い硬貨と認識できれば それで十分だからです。
どちらの面でも 10円は10円で 価値には変わりないからです。
誰が見ても 一人の人生は 一つです。
しかし10円玉を人生に例えると 表と裏の二面があり 10円玉と違って
一つの人生において 表面と 裏面の模様が違うというものは とても重大な問題なのです。
人生には 表の意味と 裏の意味の二つが 同時に存在しています。
しかし人々は 10円玉と同じように その模様の違いに気付いていません。
人生に現れてくる事象の 本当の意味を知ろうとするならば その二つの意味を紐解かなければ
なりません。
前回に記述しましたように 人生は 自分の思い通りになる部分と 思い通りにならない部分があります。
人生は すべて「思い」で創られていますから 「思い」が一つであるのならば、すべて 思う通りに
なるはずです。しかし 「思い」の通りにならないのは 人生の創造は 一つの体の中に二つの
「思いメーカー」が存在しているからなのです。
その二つの 「思いメーカー」とは
一つは 今回肉体に付随して生まれた 『自我』という新しい精神です。
そしてもう一つは すでに肉体より長く存在し たくさんの叡智を身に着けた『魂』という
肉体に宿っている存在です。
「思いメーカー」は この世に誕生したときからすでに 生き物の体の中には この2種類が
同時に 存在しているのです。
肉体を 飛行機と思ってください。
肉体と言う飛行機は 精神をどこにでも 運んでくれます。
飛行機を どこにどう飛ばすのかを決めるは 操縦士です。
人と言う飛行機には 操縦席に 二人の操縦士が初めから乗っているのです。
「自我」と 「魂」です。
どちらも 飛行機の操縦ができます。
二人の 飛ぶ方向や 行き先が同じであれば 水平安定飛行で 何の問題もありませんが
この二人の操縦士の 目指す目的地が違うと 飛行が不安定になります。
かと言って 飛行機を半分に分ける事はできません。
この二人の心の中のやりとりが 「自分がわからない」「自分が知りたい」「自分と戦う」等々
葛藤や心の迷い 己との戦い・・・等になるのです。
操縦席で この二人がいろいろとやりとりをしながら 飛ぶ方向を考えるのが 人生の創作において
重大な事となります。
一つの飛行機の操縦席に 二つの全く違う精神が 座っているのですから どちらがメインの操縦を
するのかで 人生は 大きく違ってくるのです。操縦桿は 二つの「「思い」のどちらかでコントロールされているのです。
ただ人生という飛行機は やみくもに 飛んでいるのではありません。
全飛行機 さらに大きな「思い」で コントロールされているのです。
パイロットは 自由に空を飛べるとしても 管制塔の指示に従わないといけない事がある。
その人生の管制塔が みなさんの中に存在する 『神我の思い』なのです。
前回は「思い」を笹船で たとえました。 その笹船は 川と言う大きな流れの上を ある一定の方向に
流されています。飛行機で例えるならば 風と言う大きな流れの中である一定の方向に流されています。
「人生物語の味わいの中で たくさんの「思い」を生み出し 自分自身の心の在りかたと
ものの考え方を 向上させていく。そして 自分という人格を 洗練・成長・拡大させていくのだ。
至高の愛と善の状態に 自分の心を導くことこそが、人生の真実の目的なり。」
その「神我の思い」が 私達が包み込まれ 導き流されている 方向であり その身を任せている
大きな流れなのです。
私達の 輪廻転生にて人生を積みかさねていく 真の目的を 魂は私に こう言いました。
『至高の愛と善の状態に向かって 自分の心を 洗練・成長・拡大していきなさい』
そして
『その高められた 愛と善の実践の場が この世である』
『愛と善を実践せよ。それが 汝の幸福たるものとなる』 と・・・・・・・。
人は たくさんの思いを 自分の内面に巡らせながら たくさんの創造をし 人生というスクリーンに
様々な物語を 投影させています。
人生の主人公は みな自分です。
そして自分なりのオリジナルな 人生ストーリーを作りながら生きています。
その人生のストーリーは 本来自分で好きに作れます。あなたが思う通りに作れるのです。
しかし そのストーリーの筋書きに 自分が思ってもいないことが書き込まれることがあります。
人生物語の創作において 知っておかねばならないことが 二つあります。
私はスピリチュアル ライフ アドバイザーとして 人生を10円玉に例えてお話することがあります。
10円玉が道に落ちていると 10円玉が落ちていると認識しますね。
その時 人は 10円玉の裏の面が見えているのか 表の面が見えているのか 気にも
止めることは おそらくありません。
ただ茶色い硬貨と認識できれば それで十分だからです。
どちらの面でも 10円は10円で 価値には変わりないからです。
誰が見ても 一人の人生は 一つです。
しかし10円玉を人生に例えると 表と裏の二面があり 10円玉と違って
一つの人生において 表面と 裏面の模様が違うというものは とても重大な問題なのです。
人生には 表の意味と 裏の意味の二つが 同時に存在しています。
しかし人々は 10円玉と同じように その模様の違いに気付いていません。
人生に現れてくる事象の 本当の意味を知ろうとするならば その二つの意味を紐解かなければ
なりません。
前回に記述しましたように 人生は 自分の思い通りになる部分と 思い通りにならない部分があります。
人生は すべて「思い」で創られていますから 「思い」が一つであるのならば、すべて 思う通りに
なるはずです。しかし 「思い」の通りにならないのは 人生の創造は 一つの体の中に二つの
「思いメーカー」が存在しているからなのです。
その二つの 「思いメーカー」とは
一つは 今回肉体に付随して生まれた 『自我』という新しい精神です。
そしてもう一つは すでに肉体より長く存在し たくさんの叡智を身に着けた『魂』という
肉体に宿っている存在です。
「思いメーカー」は この世に誕生したときからすでに 生き物の体の中には この2種類が
同時に 存在しているのです。
肉体を 飛行機と思ってください。
肉体と言う飛行機は 精神をどこにでも 運んでくれます。
飛行機を どこにどう飛ばすのかを決めるは 操縦士です。
人と言う飛行機には 操縦席に 二人の操縦士が初めから乗っているのです。
「自我」と 「魂」です。
どちらも 飛行機の操縦ができます。
二人の 飛ぶ方向や 行き先が同じであれば 水平安定飛行で 何の問題もありませんが
この二人の操縦士の 目指す目的地が違うと 飛行が不安定になります。
かと言って 飛行機を半分に分ける事はできません。
この二人の心の中のやりとりが 「自分がわからない」「自分が知りたい」「自分と戦う」等々
葛藤や心の迷い 己との戦い・・・等になるのです。
操縦席で この二人がいろいろとやりとりをしながら 飛ぶ方向を考えるのが 人生の創作において
重大な事となります。
一つの飛行機の操縦席に 二つの全く違う精神が 座っているのですから どちらがメインの操縦を
するのかで 人生は 大きく違ってくるのです。操縦桿は 二つの「「思い」のどちらかでコントロールされているのです。
ただ人生という飛行機は やみくもに 飛んでいるのではありません。
全飛行機 さらに大きな「思い」で コントロールされているのです。
パイロットは 自由に空を飛べるとしても 管制塔の指示に従わないといけない事がある。
その人生の管制塔が みなさんの中に存在する 『神我の思い』なのです。
前回は「思い」を笹船で たとえました。 その笹船は 川と言う大きな流れの上を ある一定の方向に
流されています。飛行機で例えるならば 風と言う大きな流れの中である一定の方向に流されています。
「人生物語の味わいの中で たくさんの「思い」を生み出し 自分自身の心の在りかたと
ものの考え方を 向上させていく。そして 自分という人格を 洗練・成長・拡大させていくのだ。
至高の愛と善の状態に 自分の心を導くことこそが、人生の真実の目的なり。」
その「神我の思い」が 私達が包み込まれ 導き流されている 方向であり その身を任せている
大きな流れなのです。
私達の 輪廻転生にて人生を積みかさねていく 真の目的を 魂は私に こう言いました。
『至高の愛と善の状態に向かって 自分の心を 洗練・成長・拡大していきなさい』
そして
『その高められた 愛と善の実践の場が この世である』
『愛と善を実践せよ。それが 汝の幸福たるものとなる』 と・・・・・・・。
Posted by 愛 みーこ at
15:48
│Comments(3)
2013年06月30日
人生創造について
「思いが 人生を創る」 思いという 手ではつかめない 目では見えない世界にも 本当は
つかめる何かが 存在しているのです。
思いは 何もない状態から 確実に何かが生まれている。
何かが生まれるということは 何かがそこに 存在するという事。
それはこの世的には エネルギーと呼ばれています。 そのエネルギーは すでに 視覚的・聴覚的
・・様々この世的に捉えられる存在となっているものも多いです。
しかし現在 まだ思いというエネルギーは この世的五感でとらえるのに 明確かつ的確なデータとして
外側の世界に現れていません。
しかしそこには しっかりとした 物理学上の エネルギーが存在し エネルギーによって
思いが具現化する・・だから 思いそのものが投影されるのだと 最近では言われています。
思いには エネルギー形態があり それが 自分の内面から放出され 自分以外のものの内面へと
流れ 再び相手から放出されたエネルギーが 自己内へと 流れこんできます。
それがエネルギーの 交流です。この世に存在するすべてのものは この永遠に流れが止まる事
のない 動きの中に存在し つねに巡るエネルギーの中で 形と言うものを存在させているのです。
つまり この世に存在する 「物」と言うもの(肉体を含む)は すべて「思い」から生まれたエネルギーにより
形というものが 与えられている。 私が 魂の世界から教わった事は 今私達が存在していると思っている
世界は 「思い」という世界から投影された エネルギーの世界で 形があるという「思い」が
存在というものを 頭の中で成立させているのです。
地球は青く丸い。日本という国や 他の名前がついた国が いくつもある。
それは そう言った 情報を 本当に存在すると思いこんでいる 自分という「思いメーカー」が
様々な存在を創りだしているのです。
ですから 真実に存在し もっとも重要なのは 体ではなく 「心という 思いメーカー」なのです。
あなたが今現実と思っている世界は 真実からすると 「夢」なのです。
その夢は なんのための ものなのか・・・・。
それはあなたの「心」という 真実の そして 最も重要なものを
「洗練・拡大・成長」させるためのものなのです。
人生は変えることができる というのは 「心という思いメーカー」を 変えれば
当然投影されている世界を変えることができるのです。
しかしそう言うと すべてが 思いの通りにならない・・と言われるでしょう。
その通りです。
私達の意思という 「思い」から 人生は作りだされていますが ある「流れ」というものが
存在するのです。
それは 「魂の意思」というものです。
私達は体という 自分の拠点 思いの出発点で 「思い」という エネルギーを放出し
人生を投影し 五感で捉えられるものを 形造っていますが
その「私の意思」と言うものを 先導し 誘導している思いがあるのです。
それが「魂の意思」です。
自分が思っていることが すべてこの世と言う世界に投影されるだけであったなら
どんなに楽でいいだろう・・・と思いますよね。すべてが 思い通りです。
しかし 皆さん 感じているはずです。
人生は思い通りに行く事と 行かない事がある。
「良い行いをすると 良い事が返ってくる」 「悪い行いをすると 悪い事が返ってくる」
よく昔から そう言われます。
思いや 行動と同じ事が 人生で現れてくる。
その発せられた思いから そのままが返ってくるなら 良い思いなら 楽しみに結果を待てばよいのでしょうが
もし悪い思いなら 大変な苦労をすることになりますね。
しかし 人間の思いからは 常に良い思い 悪い思い が止めどもなく 流れ出ていて 人生を
創っていることを認識する間もなく 思考は持続的に行われ その数は一日で6万回に及ぶと
言われています。
それでは どのようにして人生が創られていくのか。
それはとめどもなく行われている思考を 笹船と例えるなら
それを流していく大きな川が「魂の意思」なのです。
「魂の意思は ある方向に笹船を運んで行きます。」
人生創造において 私たちが知っておかなければならない
最も重要な ポイントが その流れにあるのです。
以後それを お話していきます。
つかめる何かが 存在しているのです。
思いは 何もない状態から 確実に何かが生まれている。
何かが生まれるということは 何かがそこに 存在するという事。
それはこの世的には エネルギーと呼ばれています。 そのエネルギーは すでに 視覚的・聴覚的
・・様々この世的に捉えられる存在となっているものも多いです。
しかし現在 まだ思いというエネルギーは この世的五感でとらえるのに 明確かつ的確なデータとして
外側の世界に現れていません。
しかしそこには しっかりとした 物理学上の エネルギーが存在し エネルギーによって
思いが具現化する・・だから 思いそのものが投影されるのだと 最近では言われています。
思いには エネルギー形態があり それが 自分の内面から放出され 自分以外のものの内面へと
流れ 再び相手から放出されたエネルギーが 自己内へと 流れこんできます。
それがエネルギーの 交流です。この世に存在するすべてのものは この永遠に流れが止まる事
のない 動きの中に存在し つねに巡るエネルギーの中で 形と言うものを存在させているのです。
つまり この世に存在する 「物」と言うもの(肉体を含む)は すべて「思い」から生まれたエネルギーにより
形というものが 与えられている。 私が 魂の世界から教わった事は 今私達が存在していると思っている
世界は 「思い」という世界から投影された エネルギーの世界で 形があるという「思い」が
存在というものを 頭の中で成立させているのです。
地球は青く丸い。日本という国や 他の名前がついた国が いくつもある。
それは そう言った 情報を 本当に存在すると思いこんでいる 自分という「思いメーカー」が
様々な存在を創りだしているのです。
ですから 真実に存在し もっとも重要なのは 体ではなく 「心という 思いメーカー」なのです。
あなたが今現実と思っている世界は 真実からすると 「夢」なのです。
その夢は なんのための ものなのか・・・・。
それはあなたの「心」という 真実の そして 最も重要なものを
「洗練・拡大・成長」させるためのものなのです。
人生は変えることができる というのは 「心という思いメーカー」を 変えれば
当然投影されている世界を変えることができるのです。
しかしそう言うと すべてが 思いの通りにならない・・と言われるでしょう。
その通りです。
私達の意思という 「思い」から 人生は作りだされていますが ある「流れ」というものが
存在するのです。
それは 「魂の意思」というものです。
私達は体という 自分の拠点 思いの出発点で 「思い」という エネルギーを放出し
人生を投影し 五感で捉えられるものを 形造っていますが
その「私の意思」と言うものを 先導し 誘導している思いがあるのです。
それが「魂の意思」です。
自分が思っていることが すべてこの世と言う世界に投影されるだけであったなら
どんなに楽でいいだろう・・・と思いますよね。すべてが 思い通りです。
しかし 皆さん 感じているはずです。
人生は思い通りに行く事と 行かない事がある。
「良い行いをすると 良い事が返ってくる」 「悪い行いをすると 悪い事が返ってくる」
よく昔から そう言われます。
思いや 行動と同じ事が 人生で現れてくる。
その発せられた思いから そのままが返ってくるなら 良い思いなら 楽しみに結果を待てばよいのでしょうが
もし悪い思いなら 大変な苦労をすることになりますね。
しかし 人間の思いからは 常に良い思い 悪い思い が止めどもなく 流れ出ていて 人生を
創っていることを認識する間もなく 思考は持続的に行われ その数は一日で6万回に及ぶと
言われています。
それでは どのようにして人生が創られていくのか。
それはとめどもなく行われている思考を 笹船と例えるなら
それを流していく大きな川が「魂の意思」なのです。
「魂の意思は ある方向に笹船を運んで行きます。」
人生創造において 私たちが知っておかなければならない
最も重要な ポイントが その流れにあるのです。
以後それを お話していきます。
Posted by 愛 みーこ at
08:24
│Comments(0)
2013年06月24日
ラオンが教えてくれた事
他の部族の争いの 仲裁から帰ってきた私の目に飛び込んだのは 家族や仲間が 皆殺される
という 悲惨でした。
残された男たちは 口々に報復を叫びます。中には仲裁の為の留守中に起こったことを嘆き 自分を
責める者もいました。
報復への気持ちに熱くなっていく中で 長老は それを絶対に許しませんでした。
敵の素性は おおよそ見当がついていました。
しかしそれは いくら強くても 20人以下の男たちで かなう人数の相手ではなく その気性の荒さも
とても太刀打ちできるものではありません。
しかし報復を止める長老の思いは そのような事ではなく 次のようなものでした。
「こうなったのは 天の意思によるもの 戦うは人ではなく 心の中の自分だ・・・・。」と。
長老は このまだまだ先の続く若者たちの 未来を守ったのです。
その後 親戚関係にあった部族の 土地の元に身を寄せ 女たちを娶り その後に続く血筋を
残してゆきました。
いろいろな過去を思い出す中で 悲惨といった経験は この人生だけではありませんが、
私は 強く悲しい事があると このラオンの人生を思うのです。
そして この耐え難い事を 乗り越え未来を築いていった人々に とても強い尊敬の念を抱くのです。
愛する犬の弱って行く姿に 私は ラオンに声をかけずには いられませんでした。
他の犬を連れ 歩きながら ラオンに質問をします。
「ラオン あなたは とてつもない悲しみを乗り越えた。すごい人生でしたね。私が その立場だったら
どうしていただろう・・・。ラオン 今私は とても悲しくて辛い。こんな時どうすればいいのだろう。
あなたは あの時どうやって 未来へ進んで行ったのですか?」
「悲しみも あのくらい大きくて 突然の悲惨だと その時は むしろ頭の中は真っ白で 悲しみすら
忘れてしまったような感じになるんだよ。」
「悲しい事 辛いことがあった時はね ただひたすらに 目の前にある やれる事 やらねばならぬ事を
一つずつ 慎重にやっていくことなんだ。コツコツと 慎重に そして心を込めてやっていく。
どんな小さなことで あったとしてもね。」
「私があの後 コツコツと慎重に やったことはね。一人一人のお墓を 作って
すべての仲間を 心を込めて弔った事なんだよ。」
そうか・・そうなんだ。辛い事 悲しい事 生きていれば 胸の痛む事は いくらでもやってくる。どんな人にも。
そんな時は ただひたすらに 目の前にある事を 慎重に 心を込めてやっていくことなんだ。
コツコツと一つずつ。
「悲しい事があったとしても 自分がやりたい事を やっていいんだよ。そんな時 自分を責めちゃいけないよ。」
「やれる事も やりたい事も やらねばならぬ事も すべては 天があなたに贈っているものなんだ。」
「だから目の前に与えられたものを ただひたすらに 解いていくことなんだよ。心を込めて」
「そうだね。ラオン コツコツと 目の前にあるものを やっていくよ。一つずつ すべての事に心を込めて。」
「愛を込めて。」
そうして 私は精一杯 愛する犬のお世話と そして やれる事 やりたい事 やらねばならぬ事を
慎重に選択し 一つ一つをコツコツと 大切に 成し遂げていくのでした。
辛さ 悲しさ すべてを 愛を深めることに 変えていきながら・・・。
という 悲惨でした。
残された男たちは 口々に報復を叫びます。中には仲裁の為の留守中に起こったことを嘆き 自分を
責める者もいました。
報復への気持ちに熱くなっていく中で 長老は それを絶対に許しませんでした。
敵の素性は おおよそ見当がついていました。
しかしそれは いくら強くても 20人以下の男たちで かなう人数の相手ではなく その気性の荒さも
とても太刀打ちできるものではありません。
しかし報復を止める長老の思いは そのような事ではなく 次のようなものでした。
「こうなったのは 天の意思によるもの 戦うは人ではなく 心の中の自分だ・・・・。」と。
長老は このまだまだ先の続く若者たちの 未来を守ったのです。
その後 親戚関係にあった部族の 土地の元に身を寄せ 女たちを娶り その後に続く血筋を
残してゆきました。
いろいろな過去を思い出す中で 悲惨といった経験は この人生だけではありませんが、
私は 強く悲しい事があると このラオンの人生を思うのです。
そして この耐え難い事を 乗り越え未来を築いていった人々に とても強い尊敬の念を抱くのです。
愛する犬の弱って行く姿に 私は ラオンに声をかけずには いられませんでした。
他の犬を連れ 歩きながら ラオンに質問をします。
「ラオン あなたは とてつもない悲しみを乗り越えた。すごい人生でしたね。私が その立場だったら
どうしていただろう・・・。ラオン 今私は とても悲しくて辛い。こんな時どうすればいいのだろう。
あなたは あの時どうやって 未来へ進んで行ったのですか?」
「悲しみも あのくらい大きくて 突然の悲惨だと その時は むしろ頭の中は真っ白で 悲しみすら
忘れてしまったような感じになるんだよ。」
「悲しい事 辛いことがあった時はね ただひたすらに 目の前にある やれる事 やらねばならぬ事を
一つずつ 慎重にやっていくことなんだ。コツコツと 慎重に そして心を込めてやっていく。
どんな小さなことで あったとしてもね。」
「私があの後 コツコツと慎重に やったことはね。一人一人のお墓を 作って
すべての仲間を 心を込めて弔った事なんだよ。」
そうか・・そうなんだ。辛い事 悲しい事 生きていれば 胸の痛む事は いくらでもやってくる。どんな人にも。
そんな時は ただひたすらに 目の前にある事を 慎重に 心を込めてやっていくことなんだ。
コツコツと一つずつ。
「悲しい事があったとしても 自分がやりたい事を やっていいんだよ。そんな時 自分を責めちゃいけないよ。」
「やれる事も やりたい事も やらねばならぬ事も すべては 天があなたに贈っているものなんだ。」
「だから目の前に与えられたものを ただひたすらに 解いていくことなんだよ。心を込めて」
「そうだね。ラオン コツコツと 目の前にあるものを やっていくよ。一つずつ すべての事に心を込めて。」
「愛を込めて。」
そうして 私は精一杯 愛する犬のお世話と そして やれる事 やりたい事 やらねばならぬ事を
慎重に選択し 一つ一つをコツコツと 大切に 成し遂げていくのでした。
辛さ 悲しさ すべてを 愛を深めることに 変えていきながら・・・。
Posted by 愛 みーこ at
23:32
│Comments(4)
2013年06月23日
過去世 ラオンとの会話
ここ数日の話です。
わが家の 大切な家族である愛犬が 重篤な病気にかかりました。
みるみるうちに 弱る姿が痛々しく 悲しい涙が出ます。
わが家は犬が3頭いますので、そんな中でも 他の二頭の散歩に行かなくてはなりません。
歩きながら 私は 心の中で 魂の人格である ある男性を呼び出しました。
彼はネイティブ・アメリカンの人生の時の主役です。
彼の人生の時詳しい事を 以前私はフェイスブックの 自分のページで投稿したことがありました。
彼の人生を簡単に紹介します。
彼はネイティブ・アメリカンのある部族に生まれました。
その頃 アメリカには たくさんのネイティブ・アメリカンの部族があり、部族によって
農耕の向いている穏やかな部族から 戦いに明け暮れる 激しい部族まで
いろいろな気質の部族が 存在していました。
彼の部族は 力は常に鍛えているものの それは優秀な狩人を育てるためで 温厚で戦いを好まず
常に自然の中に存在する神という存在に 畏敬の念を抱き 謙虚な生き方を大切にする部族でした。
ネイティブ・アメリカンの部族同志の 衝突は珍しくなく 小さないさかいから 大きな戦いまで
よく起こっていました。他の部族の事には 基本干渉はしませんが ある日友好的な関係を築いている
部族に戦いが起こり 彼の部族は仲裁に入り 戦いを諌めることとなりました。
15~6人位の 我が部族の中でも屈強な男たちが 身を守るための武器を持ち 仲裁へ出発
しました。もちろん その中の一人が 私の過去世です。
私は今まで 彼の存在と話はした事は 何度もありましたが 名前を聞いた事はありませんでした。
散歩の途中 彼に名前を聞きました。
「ラオンと呼んでくれ。」「狩人と言う意味だ。」 彼は そう答えてくれました。
以後彼を ラオンと呼びます。
ラオン達精鋭は 馬に乗り仲裁へ向かい 話し合いの場を作り 上手く戦いを回避させる事ができました。
ほっと 安堵の気持ちで 元来た長い道のりを 我が部族の村へと帰ります。
村が見えてきました。いつもなら 仲間たちが動いているのが見えますが 近づいて行っても
人の気配というものが 感じられません。 --何か変だぞ--
気配で 獣の位置を察知し 見事に仕留める 狩りの優秀な部族です。
村全体から 放たれる気配が いつもと違う事を察したのは ラオンだけではありませんでした。
なんとなく違う気配に 仲間は馬を歩かせながら お互いに顔を見合せました。
長老の顔も 皺が さらに深くなったように 顔全体が曇っています。
皆の表情が 一斉に変わり 馬を急ぎ走らせます。
林を抜けて 村全体の風景が 眼前に広がった時 全員は 愕然としました。
人はいました。しかし皆 倒れています。
背中に槍が刺さったまま 倒れている人が目に入った時 村に何が起こったのかわかりました。
他の部族の争いの仲裁に行っている間 自分達の部族は 他の部族の襲撃にあい 仲間たちは皆
殺されていました。生き残っていたのは 森に逃げ込んだ 子ども数人だけでした。
ラオンは すぐに自分のうちに戻りました。
家族は 家の中でみな殺されていました。幼い弟たちも皆冷たくなっていました。
壁に血が 雨の滴のように 飛び散っています。
ラオンは思わず 倒れている弟のそばにひざまずき 壁の血をなでました。すでに それは 乾ききっていて
殺されてから時間が経っていること
おそらく自分たちが 出発した直後あたりに襲われたのであろう事を 物語っていました。
今回の人生で ラオンの人生を思い出したきっかけは ラオンが壁の血をなでた描写と同じ行動を
私が とったことです。
ある日トイレに入って ふと壁を見たら 血が付いていました。小学生の娘が 夜鼻血が出て
手で触ったため トイレに入った時ついてしまったようでした。
私は何故だか ふとその血を指で撫でたのです。
すると なんとも 愛おしいような 懐かしいような感情が 心の底から湧いてくるのを 感じます。
そして ---あー私は このような場面を知っているー--
そう思った時 このネイティブ・アメリカンの人生を 思い出したのです。
ラオンの人生は とても悲惨なものではありましたが、同時に その悲惨を乗り越えた
とてもグレードの高い人生でも ありました。
わが家の 大切な家族である愛犬が 重篤な病気にかかりました。
みるみるうちに 弱る姿が痛々しく 悲しい涙が出ます。
わが家は犬が3頭いますので、そんな中でも 他の二頭の散歩に行かなくてはなりません。
歩きながら 私は 心の中で 魂の人格である ある男性を呼び出しました。
彼はネイティブ・アメリカンの人生の時の主役です。
彼の人生の時詳しい事を 以前私はフェイスブックの 自分のページで投稿したことがありました。
彼の人生を簡単に紹介します。
彼はネイティブ・アメリカンのある部族に生まれました。
その頃 アメリカには たくさんのネイティブ・アメリカンの部族があり、部族によって
農耕の向いている穏やかな部族から 戦いに明け暮れる 激しい部族まで
いろいろな気質の部族が 存在していました。
彼の部族は 力は常に鍛えているものの それは優秀な狩人を育てるためで 温厚で戦いを好まず
常に自然の中に存在する神という存在に 畏敬の念を抱き 謙虚な生き方を大切にする部族でした。
ネイティブ・アメリカンの部族同志の 衝突は珍しくなく 小さないさかいから 大きな戦いまで
よく起こっていました。他の部族の事には 基本干渉はしませんが ある日友好的な関係を築いている
部族に戦いが起こり 彼の部族は仲裁に入り 戦いを諌めることとなりました。
15~6人位の 我が部族の中でも屈強な男たちが 身を守るための武器を持ち 仲裁へ出発
しました。もちろん その中の一人が 私の過去世です。
私は今まで 彼の存在と話はした事は 何度もありましたが 名前を聞いた事はありませんでした。
散歩の途中 彼に名前を聞きました。
「ラオンと呼んでくれ。」「狩人と言う意味だ。」 彼は そう答えてくれました。
以後彼を ラオンと呼びます。
ラオン達精鋭は 馬に乗り仲裁へ向かい 話し合いの場を作り 上手く戦いを回避させる事ができました。
ほっと 安堵の気持ちで 元来た長い道のりを 我が部族の村へと帰ります。
村が見えてきました。いつもなら 仲間たちが動いているのが見えますが 近づいて行っても
人の気配というものが 感じられません。 --何か変だぞ--
気配で 獣の位置を察知し 見事に仕留める 狩りの優秀な部族です。
村全体から 放たれる気配が いつもと違う事を察したのは ラオンだけではありませんでした。
なんとなく違う気配に 仲間は馬を歩かせながら お互いに顔を見合せました。
長老の顔も 皺が さらに深くなったように 顔全体が曇っています。
皆の表情が 一斉に変わり 馬を急ぎ走らせます。
林を抜けて 村全体の風景が 眼前に広がった時 全員は 愕然としました。
人はいました。しかし皆 倒れています。
背中に槍が刺さったまま 倒れている人が目に入った時 村に何が起こったのかわかりました。
他の部族の争いの仲裁に行っている間 自分達の部族は 他の部族の襲撃にあい 仲間たちは皆
殺されていました。生き残っていたのは 森に逃げ込んだ 子ども数人だけでした。
ラオンは すぐに自分のうちに戻りました。
家族は 家の中でみな殺されていました。幼い弟たちも皆冷たくなっていました。
壁に血が 雨の滴のように 飛び散っています。
ラオンは思わず 倒れている弟のそばにひざまずき 壁の血をなでました。すでに それは 乾ききっていて
殺されてから時間が経っていること
おそらく自分たちが 出発した直後あたりに襲われたのであろう事を 物語っていました。
今回の人生で ラオンの人生を思い出したきっかけは ラオンが壁の血をなでた描写と同じ行動を
私が とったことです。
ある日トイレに入って ふと壁を見たら 血が付いていました。小学生の娘が 夜鼻血が出て
手で触ったため トイレに入った時ついてしまったようでした。
私は何故だか ふとその血を指で撫でたのです。
すると なんとも 愛おしいような 懐かしいような感情が 心の底から湧いてくるのを 感じます。
そして ---あー私は このような場面を知っているー--
そう思った時 このネイティブ・アメリカンの人生を 思い出したのです。
ラオンの人生は とても悲惨なものではありましたが、同時に その悲惨を乗り越えた
とてもグレードの高い人生でも ありました。
Posted by 愛 みーこ at
23:20
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2013年06月19日
自分とは何か.2
この世の経験で積み重ねられた 自身の経験によって 人は様々な定義づけを行い 親とは何か
趣味とは何か 友情とは何か・・・と 今回の自分の思いと考え方を積み上げていきます。
それは自我と言う 今回生まれたばかりの自分自身のものです。
一方魂の中の思いと考え方は 高い次元の導き手である神我と たくさんの人格達の思いと
考え方が 自我に届けられたものです。
よく昔から 今からだが不自由な人は 生まれる前に悪い事をしたからだ・・・。
と、言われることが多くありました。
カンボジアの救済活動をしている知人は 地雷の被害者たちは そのように言われて差別されることが
体が不自由な事より辛いと カンボジアの方々の気持ちを述べられていました。
先に結論からお伝えしますと、輪廻転生において 罪を犯したから 現在の苦難があると思うのは
間違いです。
私が輪廻転生において 過去世を振り返った時 ビリーミリガンのお話の回で 説明しましたように
人として好ましい人生と 人として好ましくない 人生があったのを 思い出します。
誰かを救うような 偉大な人生もあれば 夫婦仲が悪く ほとんど夫と口をきかない人生などもありました。
目の前で 愛する人が胸を打たれ 私の膝の上で息絶えた時も アフリカの時代 病気で幼い子を
亡くし その遺体を手放すことができず 大変苦しんだ時もあります。
この人類の歴史の中で 人を殺したことのない人生を送った魂は一つもありません。
どこかの国で 必ず経験をしている。もちろん それはその時代の理由というものがありました。
ヨーロッパの時代 酷い障害を背負って生まれた時もありました。
そこだけ聞くとなんと恐ろしい事か・・・。そう思って 輪廻転生を信じたくなくなるかもしれません。
しかし そう言った経験があるから 今それを繰り返す ではないのです。
例えば 日本で武将をしていた時代です。私は国の民を守らんがために 他の国(日本国内同志)の民を
何人も手にかけてきました。私は トップから名誉を与えられ 意気盛んに戦っていましたが 長男が
元服間際の 人生で一番輝いている時に 敵国の 鎧すらつけていない小姓に 命を取られました。
人は魂に戻った時 その人生を振り返ります。
そこで 学んだのは どんな理由があっても 他の命を途中で止めてしまう事を 絶対にやってはならない。
と言うことです。戦争の時代は 戦い方やどれだけ勢力を伸ばしたかが引き継がれる思いではなく
どれだけ仲間を信じたか。どれだけ心を繋げ お互いを思いやったかです。
重度の障害があった時代は 家とその前の6畳ほどの石畳しか 私の知る世界はありませんでした。
しかし 働くことも まともに物を考える事も出来なかった私を 親は決して見放すことはなく、他の人から
の迫害から守ってくれました。 貧しい時代でしたので 家族がニコニコと余裕を持って 生きては
いませんでしたが 私を追い出すこともなく 兄妹との食事の差別は一切ありません。
20数年しか生きられませんでしたが とても温かい愛を感じた素晴らしい人生でした。
他の者からすると その人生は障害があった上に 寿命短く さぞかし不幸であったと考えるでしょう。
パラオでの人生を振り返りながら その時兵隊として亡くなった方が 現在の友人の夫たちである人々
がいます。 兵隊の時と今のその方々と キャラクターが変わっていません。
今はもちろんすこぶるお元気で幸せに過ごされていますが、アメリカ軍が攻めてくる直前の彼らは
とても最後まで立派でした。 お一人は 自分はおそらくこの戦いが人生最後となるであろう・・。
そうわかっていながら 最後まで私達に 心配と胸の痛みを与えないようにと
「私は 大丈夫ですから。」と 笑顔で 話されました。
今それを思い出して なんと思いやりの深い立派な方だろう・・・。
その方の現在の奥様に それを伝えながら 涙が止まりませんでした。
この世の悲惨は この世にいる間は 悲惨でしかないでしょうが 人生を終え 魂に戻った時
純化という事が行われ 実は 悲惨や苦難も 大切な心の材料となるのです。
純化は 人間として生きている間 魂の経験したことから 愛と善を抽出し
それを心の大切な宝物とする作業です。
魂に戻ると 思いは濾過されると言うことなのです。
抽出された 『愛と善』の思いは さらに この世で それを拡大していくための物語を経験するのです。
要するに 魂の輪廻転生の目的は この世という 喜び・悲しみ・困難・融合・絆作り・挑戦・愛すること・
愛されること この世という次元だからこそ 経験ができる事の中で
『魂の中の 愛と善の向上を果たし 人格という心の価値の向上に向かっていくのです』
24人格持ったビリーミリガンが 何故この世で犯罪と言うものを犯したのかというと 彼の言う「心のスポット」
に表れた人格者を そのまま表現したからです。彼が病的であると言われるのは 24人格持っていることではなく
過去世で 純化という思いの濾過作業で 抽出されたものを使って この世を生きるのではなく
心の中に存在する 荒くれた男性の記憶を 自我のビリーが演じてしまった事が 病的で問題なのです。
しかしビリーミリガンという男性が 何故そのような問題者となったのか・・・。
それは彼が 人は多重人格である と言うことを 人々に伝えるための
大切なメッセンジャーだからなのです。
趣味とは何か 友情とは何か・・・と 今回の自分の思いと考え方を積み上げていきます。
それは自我と言う 今回生まれたばかりの自分自身のものです。
一方魂の中の思いと考え方は 高い次元の導き手である神我と たくさんの人格達の思いと
考え方が 自我に届けられたものです。
よく昔から 今からだが不自由な人は 生まれる前に悪い事をしたからだ・・・。
と、言われることが多くありました。
カンボジアの救済活動をしている知人は 地雷の被害者たちは そのように言われて差別されることが
体が不自由な事より辛いと カンボジアの方々の気持ちを述べられていました。
先に結論からお伝えしますと、輪廻転生において 罪を犯したから 現在の苦難があると思うのは
間違いです。
私が輪廻転生において 過去世を振り返った時 ビリーミリガンのお話の回で 説明しましたように
人として好ましい人生と 人として好ましくない 人生があったのを 思い出します。
誰かを救うような 偉大な人生もあれば 夫婦仲が悪く ほとんど夫と口をきかない人生などもありました。
目の前で 愛する人が胸を打たれ 私の膝の上で息絶えた時も アフリカの時代 病気で幼い子を
亡くし その遺体を手放すことができず 大変苦しんだ時もあります。
この人類の歴史の中で 人を殺したことのない人生を送った魂は一つもありません。
どこかの国で 必ず経験をしている。もちろん それはその時代の理由というものがありました。
ヨーロッパの時代 酷い障害を背負って生まれた時もありました。
そこだけ聞くとなんと恐ろしい事か・・・。そう思って 輪廻転生を信じたくなくなるかもしれません。
しかし そう言った経験があるから 今それを繰り返す ではないのです。
例えば 日本で武将をしていた時代です。私は国の民を守らんがために 他の国(日本国内同志)の民を
何人も手にかけてきました。私は トップから名誉を与えられ 意気盛んに戦っていましたが 長男が
元服間際の 人生で一番輝いている時に 敵国の 鎧すらつけていない小姓に 命を取られました。
人は魂に戻った時 その人生を振り返ります。
そこで 学んだのは どんな理由があっても 他の命を途中で止めてしまう事を 絶対にやってはならない。
と言うことです。戦争の時代は 戦い方やどれだけ勢力を伸ばしたかが引き継がれる思いではなく
どれだけ仲間を信じたか。どれだけ心を繋げ お互いを思いやったかです。
重度の障害があった時代は 家とその前の6畳ほどの石畳しか 私の知る世界はありませんでした。
しかし 働くことも まともに物を考える事も出来なかった私を 親は決して見放すことはなく、他の人から
の迫害から守ってくれました。 貧しい時代でしたので 家族がニコニコと余裕を持って 生きては
いませんでしたが 私を追い出すこともなく 兄妹との食事の差別は一切ありません。
20数年しか生きられませんでしたが とても温かい愛を感じた素晴らしい人生でした。
他の者からすると その人生は障害があった上に 寿命短く さぞかし不幸であったと考えるでしょう。
パラオでの人生を振り返りながら その時兵隊として亡くなった方が 現在の友人の夫たちである人々
がいます。 兵隊の時と今のその方々と キャラクターが変わっていません。
今はもちろんすこぶるお元気で幸せに過ごされていますが、アメリカ軍が攻めてくる直前の彼らは
とても最後まで立派でした。 お一人は 自分はおそらくこの戦いが人生最後となるであろう・・。
そうわかっていながら 最後まで私達に 心配と胸の痛みを与えないようにと
「私は 大丈夫ですから。」と 笑顔で 話されました。
今それを思い出して なんと思いやりの深い立派な方だろう・・・。
その方の現在の奥様に それを伝えながら 涙が止まりませんでした。
この世の悲惨は この世にいる間は 悲惨でしかないでしょうが 人生を終え 魂に戻った時
純化という事が行われ 実は 悲惨や苦難も 大切な心の材料となるのです。
純化は 人間として生きている間 魂の経験したことから 愛と善を抽出し
それを心の大切な宝物とする作業です。
魂に戻ると 思いは濾過されると言うことなのです。
抽出された 『愛と善』の思いは さらに この世で それを拡大していくための物語を経験するのです。
要するに 魂の輪廻転生の目的は この世という 喜び・悲しみ・困難・融合・絆作り・挑戦・愛すること・
愛されること この世という次元だからこそ 経験ができる事の中で
『魂の中の 愛と善の向上を果たし 人格という心の価値の向上に向かっていくのです』
24人格持ったビリーミリガンが 何故この世で犯罪と言うものを犯したのかというと 彼の言う「心のスポット」
に表れた人格者を そのまま表現したからです。彼が病的であると言われるのは 24人格持っていることではなく
過去世で 純化という思いの濾過作業で 抽出されたものを使って この世を生きるのではなく
心の中に存在する 荒くれた男性の記憶を 自我のビリーが演じてしまった事が 病的で問題なのです。
しかしビリーミリガンという男性が 何故そのような問題者となったのか・・・。
それは彼が 人は多重人格である と言うことを 人々に伝えるための
大切なメッセンジャーだからなのです。
Posted by 愛 みーこ at
08:45
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2013年06月18日
自分とは何か.1
自分というものが 作られていく一番の要因は もちろん後天的なものが 大きい思います。
どこで生まれたのか どんな親だったのか 友人関係 学校・・・・
様々な環境が 私を作ります。
私はスピリチュアル ライフ アドバイザーとして この約7年近くで 数千回の人生のアドバイスをして
きましたが 大人になってから 感じる人生の苦難と言ったものは ほとんどが すでに子どもの頃
に作られた 自分自身の 思いと物の考え方から 生じています。
私が自分自身の人生を分析していきますと 子どもっぽい私 理論的に話をする私 女性的な私
気の強い私 気の弱い私 先頭に立とうとする私 先頭を嫌がる私
人や動物が 大好きな私
他者に親切にすることを喜ぶ私 どれも生育環境の中で 生まれた今回の私です。
何故そのような気質・性格になったのかは おおよそ見当がつきます。
例えば 子どもっぽさは あまりスキンシップを取らなかった 親への甘えの持続です。
理論的な 話をするのは 理論的な話し方をする父親の影響です。
他者に親切にすることを 喜ぶ私は 世話好きだった 祖母の影響が最も強いでしょう。
人や動物が大好きなのは 子どもの頃から 家族親戚から可愛がられた事
また父が動物が好きで 私は子犬と共に育ったことです。
しかし頭では理解しがたい自分もいます。
それは 心の奥深くの思いから 突き上げてくるように 染み出てくるように 湧き上がる自分の思いです。
先述しました 女性の自分としてよりも 強く意識された男性としての自分 これは小学生の頃に気づきました。
中学生の時から 仲間という言葉に強い思いを感じ 人々と繋がる事 繋げる事 部活動やその後の
職場 また職場以外においても チームという仲間を守り 組織を作りあげていく事に 力を注ぎました。
「そして現在は 人々を自分の言葉と行動で 幸せに導きたい 」
そのような 熱い思いが 心の奥深いところから 流れ出てきます。
魂の思いは 理由なく 心の奥深いところから流れ出て 知らぬ間に突き動かされる。
それは人々が 長い長いそして多くの生まれ変わりにより 手にしてきた 経験と言う名の
宝物から生まれています。
人生の中で 引き継がれる思いは 100年生きても わずかなものです。
皆さんも 今回生まれてから 今までの間に どのくらいの思いを手に入れましたか?
ずっと後まで持ち越されるような 思いは 何十年生きても わずかであると思います。
しかしそのわずかな でも熱い思いは それから何千年もの間 自分自身の中で燃えつづけるのです。
その燃えつづける魂の思いは どのように持ち越されるのか。
私自身の過去世の思いから検証してみたいと思います。
どこで生まれたのか どんな親だったのか 友人関係 学校・・・・
様々な環境が 私を作ります。
私はスピリチュアル ライフ アドバイザーとして この約7年近くで 数千回の人生のアドバイスをして
きましたが 大人になってから 感じる人生の苦難と言ったものは ほとんどが すでに子どもの頃
に作られた 自分自身の 思いと物の考え方から 生じています。
私が自分自身の人生を分析していきますと 子どもっぽい私 理論的に話をする私 女性的な私
気の強い私 気の弱い私 先頭に立とうとする私 先頭を嫌がる私
人や動物が 大好きな私
他者に親切にすることを喜ぶ私 どれも生育環境の中で 生まれた今回の私です。
何故そのような気質・性格になったのかは おおよそ見当がつきます。
例えば 子どもっぽさは あまりスキンシップを取らなかった 親への甘えの持続です。
理論的な 話をするのは 理論的な話し方をする父親の影響です。
他者に親切にすることを 喜ぶ私は 世話好きだった 祖母の影響が最も強いでしょう。
人や動物が大好きなのは 子どもの頃から 家族親戚から可愛がられた事
また父が動物が好きで 私は子犬と共に育ったことです。
しかし頭では理解しがたい自分もいます。
それは 心の奥深くの思いから 突き上げてくるように 染み出てくるように 湧き上がる自分の思いです。
先述しました 女性の自分としてよりも 強く意識された男性としての自分 これは小学生の頃に気づきました。
中学生の時から 仲間という言葉に強い思いを感じ 人々と繋がる事 繋げる事 部活動やその後の
職場 また職場以外においても チームという仲間を守り 組織を作りあげていく事に 力を注ぎました。
「そして現在は 人々を自分の言葉と行動で 幸せに導きたい 」
そのような 熱い思いが 心の奥深いところから 流れ出てきます。
魂の思いは 理由なく 心の奥深いところから流れ出て 知らぬ間に突き動かされる。
それは人々が 長い長いそして多くの生まれ変わりにより 手にしてきた 経験と言う名の
宝物から生まれています。
人生の中で 引き継がれる思いは 100年生きても わずかなものです。
皆さんも 今回生まれてから 今までの間に どのくらいの思いを手に入れましたか?
ずっと後まで持ち越されるような 思いは 何十年生きても わずかであると思います。
しかしそのわずかな でも熱い思いは それから何千年もの間 自分自身の中で燃えつづけるのです。
その燃えつづける魂の思いは どのように持ち越されるのか。
私自身の過去世の思いから検証してみたいと思います。
Posted by 愛 みーこ at
08:45
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2013年06月17日
魂と多重人格
性同一障害における 魂の内部との関連性について 昨日述べましたが、多重人格症における
一人の中に存在する 多数の人格の 病的発現についても同じではないでしょうか。
私は そう推測しています。
ダニエル・キイス著の 24人のビリーミリガンという 本があります。
この本も 自動的に私に与えられたものです。
ある日散歩しながら レンタルビデオ屋さんの前を通りかかります。行き過ぎたところで、
心に --止まって 中に入って-- という声が届きました。
私は 何も用事はないはずなのになぁーー。そう思いながらも 心の声に従って中に入りました。
そのお店は 手前が古本販売 奥がレンタルビデオコーナーでした。
ビデオコーナーへ 行くと思いきや 古本コーナーに入ります。
そしてある本を手に取らされるのです。
その本の タイトルは 『24人のビリーミリガン』でした。
なんだかおもしろそう 。自分自身も納得し 購入しました。
それは多重人格者の話です。アメリカのオハイオ州で 連続強姦事件の容疑者として逮捕された
ビリーミリガン。しかし 彼には 犯行の記憶が全くなかった。数名の精神科医により 彼は多重人格者と
診断される。 彼には 24にも人格があった。・・・・・
これは実際にある真実の本です。 ダニエルは ビリー自身から 彼について本を書くように頼まれ、数百回
に及ぶ面会と 彼に関わりのある62人と会って 書かれた本です。
精神学者の 24時間の連日の観察により ビリーには 24人格が存在していることがわかります。
そして その24人は 一人一人の人格の個性が はっきりとしており 性格だけでなく知能・年齢・国籍
・性別は全く異なっており 彼自身のスケッチによる 彼らの容姿は一人一人ちがいがある。
また その人格に代わった時に 受けさせたIQテストでは 非常に高い結果を出した人格もいる。
一人一人の人格は 容姿も好みも違い 人として好ましい人格と 好ましくない人格のグループ分けが
できる。そして そのビリー以外の23人格を統括した人格が存在し、その人格は 聡明で感受性が強く
すばらしいユーモアがある。そして 彼自身この人格を教師と呼ぶ この人格はほぼ完ぺきな記憶力を
持ち 他の人格に様々な事を 教えることができる。
現代の医学では 多重人格症は 脳のなんらかの障害において表れた病気と言われています。
確かに 内面に存在する 複数の人格の統合ができず 社会に害を与える行動をとる事自体は
病的な 状態と言えるでしょう。
しかし多重人格ということについては 私は魂次元の捉え方で無い限り 何故こういう人が存在するかは
理解には至らないと 考えています。
私は一連の不思議な体験により 人の内面には いくつもの人格が存在することがわかりました。
人は もともと 多重人格として 存在しているのです。 しかし それが 「昨日の自分と 今日の自分
そして 明日の自分」と 自身がすべてを統合しているので 大きく問題化することは ありません。
しかし小さい事柄においては 自分も気づかずに いろいろな人格のキャラクターを表現している
はずなのです。いろいろな顔を持つ・・・・。 それが 逆に正しい人間の見解ではないかと私は
考えるのです。
複数の人格の中で 好ましくない人格に影響を受けると 人生に問題が生じます。
しかし 好ましい人格を活かしていくと いくつもの優れた才能を持った人となります。
もちろんその人格は 過去世だけで作られたものではありません。
今回の人生において 生育環境の中で作られた ものの考え方から生まれた 個性も
同時に存在しているのです。
どうすれば それを活かす方の道に活用できるのか。多重人格について。
次回それを 引き続きお話します。
一人の中に存在する 多数の人格の 病的発現についても同じではないでしょうか。
私は そう推測しています。
ダニエル・キイス著の 24人のビリーミリガンという 本があります。
この本も 自動的に私に与えられたものです。
ある日散歩しながら レンタルビデオ屋さんの前を通りかかります。行き過ぎたところで、
心に --止まって 中に入って-- という声が届きました。
私は 何も用事はないはずなのになぁーー。そう思いながらも 心の声に従って中に入りました。
そのお店は 手前が古本販売 奥がレンタルビデオコーナーでした。
ビデオコーナーへ 行くと思いきや 古本コーナーに入ります。
そしてある本を手に取らされるのです。
その本の タイトルは 『24人のビリーミリガン』でした。
なんだかおもしろそう 。自分自身も納得し 購入しました。
それは多重人格者の話です。アメリカのオハイオ州で 連続強姦事件の容疑者として逮捕された
ビリーミリガン。しかし 彼には 犯行の記憶が全くなかった。数名の精神科医により 彼は多重人格者と
診断される。 彼には 24にも人格があった。・・・・・
これは実際にある真実の本です。 ダニエルは ビリー自身から 彼について本を書くように頼まれ、数百回
に及ぶ面会と 彼に関わりのある62人と会って 書かれた本です。
精神学者の 24時間の連日の観察により ビリーには 24人格が存在していることがわかります。
そして その24人は 一人一人の人格の個性が はっきりとしており 性格だけでなく知能・年齢・国籍
・性別は全く異なっており 彼自身のスケッチによる 彼らの容姿は一人一人ちがいがある。
また その人格に代わった時に 受けさせたIQテストでは 非常に高い結果を出した人格もいる。
一人一人の人格は 容姿も好みも違い 人として好ましい人格と 好ましくない人格のグループ分けが
できる。そして そのビリー以外の23人格を統括した人格が存在し、その人格は 聡明で感受性が強く
すばらしいユーモアがある。そして 彼自身この人格を教師と呼ぶ この人格はほぼ完ぺきな記憶力を
持ち 他の人格に様々な事を 教えることができる。
現代の医学では 多重人格症は 脳のなんらかの障害において表れた病気と言われています。
確かに 内面に存在する 複数の人格の統合ができず 社会に害を与える行動をとる事自体は
病的な 状態と言えるでしょう。
しかし多重人格ということについては 私は魂次元の捉え方で無い限り 何故こういう人が存在するかは
理解には至らないと 考えています。
私は一連の不思議な体験により 人の内面には いくつもの人格が存在することがわかりました。
人は もともと 多重人格として 存在しているのです。 しかし それが 「昨日の自分と 今日の自分
そして 明日の自分」と 自身がすべてを統合しているので 大きく問題化することは ありません。
しかし小さい事柄においては 自分も気づかずに いろいろな人格のキャラクターを表現している
はずなのです。いろいろな顔を持つ・・・・。 それが 逆に正しい人間の見解ではないかと私は
考えるのです。
複数の人格の中で 好ましくない人格に影響を受けると 人生に問題が生じます。
しかし 好ましい人格を活かしていくと いくつもの優れた才能を持った人となります。
もちろんその人格は 過去世だけで作られたものではありません。
今回の人生において 生育環境の中で作られた ものの考え方から生まれた 個性も
同時に存在しているのです。
どうすれば それを活かす方の道に活用できるのか。多重人格について。
次回それを 引き続きお話します。
Posted by 愛 みーこ at
10:08
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2013年06月16日
あなたの中の多数
人は多重人格であると 前回お伝えしましたが 要するに人は 多面体であるということです。
不思議な体験の始まりから 自分の中には魂が宿っており その魂は たくさんの生まれ変わりにより
生まれてきた人格達が 多数存在している。
また自分自身の人生の導き手となる 神我という高い次元の意識体も存在している。
「今回の私という自我」 「無数の人格達の集合体の真我」 「高い次元の神我」
この三つが 一個の肉体の中に存在するので 命は皆 『三位一体』の精神構造となっています。
ゆえに 一個体の中には たくさんの個性が含まれているのです。
昨日新聞記事の中に 「分人」という 言葉を見つけました。
人の中には いろいろな自分がいる。だから 一つの嫌な自分があっても 他の良い自分を
見つければよい・・・。 そのような意味があるそうです。
生活のいろいろな 場面から たくさんの過去の出来事を 思い出します。
正確には 現在の自分の体験から 過去の自分達を 心の中に発見していくのです。
柏葉創元の次に現れたは 玉依姫です。
この玉依姫は 何故か二人います。何故だろうと 疑問に思っていたら 魂は図書館で
私を案内しました。 体にまかせて図書館を歩いていると あるコーナーで止まり 一冊の本を
私の手に取らせました。 それは 日本の古い歴史用語の辞典でした。
手が何気に開いたページに 玉依姫という言葉があり 私は なるほどと思いました。
「玉依姫・・・神の憑依する巫女。神の言葉を伝えるもの」日本のあちらこちらに 玉依神社というものが
ある。
どうりで 2回も同じ名前の人生があったんだ・・・納得です。
また 今の自分の存在を当てはめると 私は現代の 玉依姫として 神我の存在を知らしめ
高い思いを伝えている。 それも 納得でした。
人と話をする時 どんな自分であったとしても 一つの自分だと思っていた時は 気付きませんでしたが
過去世の人格達と知り合うにつれて 私の考えや思いや言葉に 彼らは多分に
影響を与えていたことに気づきます。
過去世の存在から受ける影響に気づき始めてから 私の言葉に --これは 私ではないぞ--
と思うことが 何回も発見されていきました。
例えば 神我の存在や 人に注意を与える時など とても気の強い私が出てきています。
それは玉依の言葉でした。妹にメールで違う次元の事を伝えた時 とても厳しい口調の言葉を
打っています。 妹は それに怒っている様子が伝わってきましたが
「それ 私じゃないからね。中にいる 玉依に 文句があったら言ってよ。」
こんな変な会話をしなければならない時もありました。
会話だけでなく 柏葉創元の影響で おもしろい発見がありました。
私は子どもの頃 男の子と野球などするのが とても好きでした。
男兄弟がいるわけでもなく 母親が男っぽいなどということもありません。
ただ ともすると ボーイッシュになり スカートをはく自分に とても違和感がありました。
小学生の時 。--私は 今生まれる前 絶対に男やった。--
こんな確信を一人持っていました。しかし それが何故かわからぬまま 18歳くらいの時
このままだといけない 私はちゃんと女性として生きねば・・。そう思い髪を伸ばし女性としての
生き方をあえて進むようになりました。ボーイッシュな性格は 幼少から今にまで続き とても女性の友人達に
もてました。 子どもの頃から 女性に取り合いをされたりしていたくらいです。
また 自分の体を見るたびに 細い手足が嫌で 女だとダメだ。などと 力の弱い女性の自分を
否定する自分が いつもいました。
創元の存在を知ってから その理由がわかりました。
ある日ショッピングセンターへ行った時 女性の大きなポスターの前に自分が立ちます。
私は そのポスターのモデルさんに 何の興味もわかないのにです。
でも心の内側で その女性に好感を抱いているのが わかるのです。
ピーンと気付きました。 ---創元 あなたか---
そうです。今の自分ではなく 私の中の男性の影響だったのです。
そして気づきました。性同一障害は 何故起こるのか・・・・・。
男性で生まれ その体がどうしても受け入れられない人 そして女性でいて 自分が女性でいる事が
受けいれられない人。
それは 過去世の影響に翻弄され 今回の自分の与えられた性に 合わせられない人々
だったということなのです。
そして こういう見解に達しました。
過去を知ることも 過去を活かす事も とても大切な事だ。
しかし それはあくまでも 今の自分と言うものをしっかりと 確立し 今の自分の人生に
役立つ材料とするためのものである。
ただの 翻弄される原因であってはならないのだ。
不思議な体験の始まりから 自分の中には魂が宿っており その魂は たくさんの生まれ変わりにより
生まれてきた人格達が 多数存在している。
また自分自身の人生の導き手となる 神我という高い次元の意識体も存在している。
「今回の私という自我」 「無数の人格達の集合体の真我」 「高い次元の神我」
この三つが 一個の肉体の中に存在するので 命は皆 『三位一体』の精神構造となっています。
ゆえに 一個体の中には たくさんの個性が含まれているのです。
昨日新聞記事の中に 「分人」という 言葉を見つけました。
人の中には いろいろな自分がいる。だから 一つの嫌な自分があっても 他の良い自分を
見つければよい・・・。 そのような意味があるそうです。
生活のいろいろな 場面から たくさんの過去の出来事を 思い出します。
正確には 現在の自分の体験から 過去の自分達を 心の中に発見していくのです。
柏葉創元の次に現れたは 玉依姫です。
この玉依姫は 何故か二人います。何故だろうと 疑問に思っていたら 魂は図書館で
私を案内しました。 体にまかせて図書館を歩いていると あるコーナーで止まり 一冊の本を
私の手に取らせました。 それは 日本の古い歴史用語の辞典でした。
手が何気に開いたページに 玉依姫という言葉があり 私は なるほどと思いました。
「玉依姫・・・神の憑依する巫女。神の言葉を伝えるもの」日本のあちらこちらに 玉依神社というものが
ある。
どうりで 2回も同じ名前の人生があったんだ・・・納得です。
また 今の自分の存在を当てはめると 私は現代の 玉依姫として 神我の存在を知らしめ
高い思いを伝えている。 それも 納得でした。
人と話をする時 どんな自分であったとしても 一つの自分だと思っていた時は 気付きませんでしたが
過去世の人格達と知り合うにつれて 私の考えや思いや言葉に 彼らは多分に
影響を与えていたことに気づきます。
過去世の存在から受ける影響に気づき始めてから 私の言葉に --これは 私ではないぞ--
と思うことが 何回も発見されていきました。
例えば 神我の存在や 人に注意を与える時など とても気の強い私が出てきています。
それは玉依の言葉でした。妹にメールで違う次元の事を伝えた時 とても厳しい口調の言葉を
打っています。 妹は それに怒っている様子が伝わってきましたが
「それ 私じゃないからね。中にいる 玉依に 文句があったら言ってよ。」
こんな変な会話をしなければならない時もありました。
会話だけでなく 柏葉創元の影響で おもしろい発見がありました。
私は子どもの頃 男の子と野球などするのが とても好きでした。
男兄弟がいるわけでもなく 母親が男っぽいなどということもありません。
ただ ともすると ボーイッシュになり スカートをはく自分に とても違和感がありました。
小学生の時 。--私は 今生まれる前 絶対に男やった。--
こんな確信を一人持っていました。しかし それが何故かわからぬまま 18歳くらいの時
このままだといけない 私はちゃんと女性として生きねば・・。そう思い髪を伸ばし女性としての
生き方をあえて進むようになりました。ボーイッシュな性格は 幼少から今にまで続き とても女性の友人達に
もてました。 子どもの頃から 女性に取り合いをされたりしていたくらいです。
また 自分の体を見るたびに 細い手足が嫌で 女だとダメだ。などと 力の弱い女性の自分を
否定する自分が いつもいました。
創元の存在を知ってから その理由がわかりました。
ある日ショッピングセンターへ行った時 女性の大きなポスターの前に自分が立ちます。
私は そのポスターのモデルさんに 何の興味もわかないのにです。
でも心の内側で その女性に好感を抱いているのが わかるのです。
ピーンと気付きました。 ---創元 あなたか---
そうです。今の自分ではなく 私の中の男性の影響だったのです。
そして気づきました。性同一障害は 何故起こるのか・・・・・。
男性で生まれ その体がどうしても受け入れられない人 そして女性でいて 自分が女性でいる事が
受けいれられない人。
それは 過去世の影響に翻弄され 今回の自分の与えられた性に 合わせられない人々
だったということなのです。
そして こういう見解に達しました。
過去を知ることも 過去を活かす事も とても大切な事だ。
しかし それはあくまでも 今の自分と言うものをしっかりと 確立し 今の自分の人生に
役立つ材料とするためのものである。
ただの 翻弄される原因であってはならないのだ。
Posted by 愛 みーこ at
11:18
│Comments(0)
2013年06月15日
隠されたあなたの才能.2
「ママ広島へ 帰ろうよ」娘たちが言います。「ママの本があるはずやからぁ。」
「いやー原爆で ほとんどの物が吹き飛ばされちょるとよー。ないやろぉ。」
「石の下に隠したわぁー。ねー広島に帰ろうよ。」
広島での人生で分かったことは 長女と次女は 寺に預けられていた子どもたち。
重蔵と勝吉 。三女は お腹の中にいる頃から 知っていて 紅葉の美しい時期に生まれた秋子。
檀家さんの子です。若い夫婦に連れられて 寺によく来ていました。
私は僧侶として 重蔵と勝吉の世話と 教育をしていました。
思い出しておもしろいのは この三人 今の彼女たちと 性格は ほぼ変わっていません。
「ママは女の和尚さんて 呼ばれてたよね。」 私にも 一つ前の彼の容姿が見えますが、子ども達も
同じ姿を見ていました。 私は頭のほとんどを剃ってはいましたが、後ろの一部だけ長く伸ばし
紐で結んでいました。体格がよく鍛えた体は男性ですが 切れ長の大きい瞳は 女性に生まれた方が
よかったのではというような 顔立ちだったのです。
ですから子供たちが 「女の和尚さん」と呼ばれていたというのは とても納得でした。
ある日娘たちの言う ママの本・・。がとても気になっていました。
広島へ行って探すというのは あまりにも途方もない話ですので 図書館へ行くと もしかして自分の
ルーツに出会えるかも・・・。 そう思い 県立図書館へ行きました。
図書館へついて 私はすぐ検索用のパソコンの前にいきました。。
---はて どうやって探そう。---
私はまず 柏葉創元という言葉を 入れてみましたが 何もヒットがありません。
そこで 次に 創元という言葉を入れてみました。
するとたくさんの 本が出てきました。
。---どれかなぁ?---
もちろん頭で考えて 探せるはずがありません。
上から順番に タイトルを見ていきました。
ある本のタイトルが目に触れた時 指が止まり 直感で選び 本棚の番号と位置が書かれた紙を
印刷して出しました。
紙を持って本棚の所へ行きますが 該当する番号が見当たりません。
よく見ると 書庫と書いてありました。
どうりで本棚には ないはずです。私は今まで本を探して 書庫の中にあると 受付が面倒で
あきらめていました。 。---書庫かぁ。---
そう思った時です。その場を離れようと体の向きを変えたら ある人が 「あーそれは書庫の本ですね。」
「お引出ししましょう。」とう言って 私の 手に持っていた紙を取り上げ スタスタと 受付の方へ
歩いて行かれます。この人はv図書館の人だったのです。
有無を言わさないこの人の行動に 私は 唖然としていましたが 後を慌ててついていきました。
しばらく待っていると 「はい この本ですね。」と言って 一冊の本が出てきました。
「ありがとう。」お礼を言って 本を持ち 本棚の後ろに隠れている一つだけのイスに腰かけました。
その本のタイトルは 「創元会60周年記念誌」というものでした。
開くとそこには カラーで様々な絵画が載せられていました。
絵の会の歴史を 綴ったものでした。
---あーこれは 私の本だ---
今まで理由がわからずに 惹かれていた絵の世界の 本当の理由がここにあると確信したのです。
その会は 昭和15年に創立されていました。
本の後ろの方に 会の歴史が書いてありました。
ここに 私の名前があれば 間違いない。
しかし創始者は不明と書いてあります。
肝心の名前がない。---そんなー。---
しかし あるページの写真に目が止まりました。
会の最初の旗と言うものが 写っています。
その旗には大きく柏葉の絵が 描かれていました。
そして柏葉の意味 「神が降りてくる・・・。」
確かそのように記載されていました。
柏葉に 創元 この二つの言葉がそろうなどとは また何万冊もある本から出会えるなどとは
奇跡です。そして その旗の写真の横のページの マークを見て 愕然とします。
創元会の新しいシンボルマークと書いてありました。
何故 愕然としたのかと言うと 私が そのわずか前に魂に与えられた 看護師としての
職場のシンボル―マークと まったく同じものだったからです。
すべてが揃い 私が何故 好きとは思わない美術の世界を 見つめ 絵画教室に入ってまでも
知りたかった 自分の奥底の思いは これであったのだ!
私は 一人で自分の人生の歴史を納得していました。
『過去の経験は 今の私の 思いや行動に影響を与える』
この柏葉創元の 過去だけでなく たくさんの生まれ代わりの記憶を紐解くにつれて
そう確信していくのでした。
「いやー原爆で ほとんどの物が吹き飛ばされちょるとよー。ないやろぉ。」
「石の下に隠したわぁー。ねー広島に帰ろうよ。」
広島での人生で分かったことは 長女と次女は 寺に預けられていた子どもたち。
重蔵と勝吉 。三女は お腹の中にいる頃から 知っていて 紅葉の美しい時期に生まれた秋子。
檀家さんの子です。若い夫婦に連れられて 寺によく来ていました。
私は僧侶として 重蔵と勝吉の世話と 教育をしていました。
思い出しておもしろいのは この三人 今の彼女たちと 性格は ほぼ変わっていません。
「ママは女の和尚さんて 呼ばれてたよね。」 私にも 一つ前の彼の容姿が見えますが、子ども達も
同じ姿を見ていました。 私は頭のほとんどを剃ってはいましたが、後ろの一部だけ長く伸ばし
紐で結んでいました。体格がよく鍛えた体は男性ですが 切れ長の大きい瞳は 女性に生まれた方が
よかったのではというような 顔立ちだったのです。
ですから子供たちが 「女の和尚さん」と呼ばれていたというのは とても納得でした。
ある日娘たちの言う ママの本・・。がとても気になっていました。
広島へ行って探すというのは あまりにも途方もない話ですので 図書館へ行くと もしかして自分の
ルーツに出会えるかも・・・。 そう思い 県立図書館へ行きました。
図書館へついて 私はすぐ検索用のパソコンの前にいきました。。
---はて どうやって探そう。---
私はまず 柏葉創元という言葉を 入れてみましたが 何もヒットがありません。
そこで 次に 創元という言葉を入れてみました。
するとたくさんの 本が出てきました。
。---どれかなぁ?---
もちろん頭で考えて 探せるはずがありません。
上から順番に タイトルを見ていきました。
ある本のタイトルが目に触れた時 指が止まり 直感で選び 本棚の番号と位置が書かれた紙を
印刷して出しました。
紙を持って本棚の所へ行きますが 該当する番号が見当たりません。
よく見ると 書庫と書いてありました。
どうりで本棚には ないはずです。私は今まで本を探して 書庫の中にあると 受付が面倒で
あきらめていました。 。---書庫かぁ。---
そう思った時です。その場を離れようと体の向きを変えたら ある人が 「あーそれは書庫の本ですね。」
「お引出ししましょう。」とう言って 私の 手に持っていた紙を取り上げ スタスタと 受付の方へ
歩いて行かれます。この人はv図書館の人だったのです。
有無を言わさないこの人の行動に 私は 唖然としていましたが 後を慌ててついていきました。
しばらく待っていると 「はい この本ですね。」と言って 一冊の本が出てきました。
「ありがとう。」お礼を言って 本を持ち 本棚の後ろに隠れている一つだけのイスに腰かけました。
その本のタイトルは 「創元会60周年記念誌」というものでした。
開くとそこには カラーで様々な絵画が載せられていました。
絵の会の歴史を 綴ったものでした。
---あーこれは 私の本だ---
今まで理由がわからずに 惹かれていた絵の世界の 本当の理由がここにあると確信したのです。
その会は 昭和15年に創立されていました。
本の後ろの方に 会の歴史が書いてありました。
ここに 私の名前があれば 間違いない。
しかし創始者は不明と書いてあります。
肝心の名前がない。---そんなー。---
しかし あるページの写真に目が止まりました。
会の最初の旗と言うものが 写っています。
その旗には大きく柏葉の絵が 描かれていました。
そして柏葉の意味 「神が降りてくる・・・。」
確かそのように記載されていました。
柏葉に 創元 この二つの言葉がそろうなどとは また何万冊もある本から出会えるなどとは
奇跡です。そして その旗の写真の横のページの マークを見て 愕然とします。
創元会の新しいシンボルマークと書いてありました。
何故 愕然としたのかと言うと 私が そのわずか前に魂に与えられた 看護師としての
職場のシンボル―マークと まったく同じものだったからです。
すべてが揃い 私が何故 好きとは思わない美術の世界を 見つめ 絵画教室に入ってまでも
知りたかった 自分の奥底の思いは これであったのだ!
私は 一人で自分の人生の歴史を納得していました。
『過去の経験は 今の私の 思いや行動に影響を与える』
この柏葉創元の 過去だけでなく たくさんの生まれ代わりの記憶を紐解くにつれて
そう確信していくのでした。
Posted by 愛 みーこ at
11:51
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2013年06月14日
隠されたあなたの才能、1
前世と言うものを感じ始めてから 人間の精神について たくさん知る事と出会っていきます。
前世というのは まず断片的な写真としての 記憶と思っていたことは 大きく違いました。
前世というのは 終わった物語ではなかったのです。
命がなくなるという この世での存在が終了したら 今回生まれた新しい存在である
自我という精神は 魂の中に取り込まれ その中で生き続けていくこととなるのです。
肉体は この世に付随するものですから この世の法則に乗っ取り 生命活動が終わると
分解が起こり 原子へと戻って行きます。
しかし心は 魂の中で生き続けていくのです。
私の中の人格達は みな輪廻転生において 生まれ存在したものです。
生まれ変わりの回数の多い私は かなりたくさんの 人格達が 私の中で共に生きています。
一つ前の人生の 主人公である柏葉創元との内面のやりとりで いろいろな事がわかってきました。
1.引き継がれる思い
私の人生の転機である 2006年6月19日の約ひと月前から 私は 絵画教室に通い始めていました。
私はとりたてて絵を書くのが 好きと言うことではありませんでした。
高校時代は エンピツで スケッチすることは 時々していましたが、その他は 書いたことはありません。
選択授業も 音楽でした。
しかし 何故か美術館に行く機会が多く 自分でも その理由がわかりません。
美術館の雰囲気は あまり好きではありませんが 行くと何かを探しています。
なかなか 心にしっくりとくる絵画と出会えませんが、たまに 心地よいと感じる絵に一枚くらいは出会います。
美術がそれほど好きでない自分が 何故絵に向かうのか?
その理由を掴みに 絵画教室に入ってみたのです。
私は42歳で入会しましたが その教室では一番若く みな 何十年も絵を描いてこられたベテランさん
ばかりでした。私は 何の技術も持たず 緊張しながらその門をくぐりました。
絵の先生に 何が描きたいか聞かれ 一瞬戸惑いましたが 「油絵を。」と答えていました。
鉛筆のデッサンから始まり 静物画 風景画と進んでいきましたが、先生は 油絵の基本的な書き方を
教えて下さった以外 何も教えてくれません。
テーマを告げたら いつもそこにはいないのです。
何かが教われると、思っていた私は 自分の感性を信じるしかないか・・と思い 初心者なりに
描いていきました。
とても先輩諸氏には かなわないだろう・・と 思いながら一枚の風景画を仕上げたら 先輩達が集まって来て
「あなたの絵は いいわぁ。」 「癒される絵だね。」 「何年絵を描いたの?」 「何度か見たくなるから
また持ってきてね。」
私は そのような意見を 言って頂くのは意外で 驚きました。
絵画教室では いくつかの不思議な体験があり すべての会を終了する前にやめましたが
詳しい事は また後日お話します。
不思議な体験が始まってから 子ども達は パラオの人生の次に 広島の原爆体験の人生を
語り始めます。
人は共通の過去を 同時に見る事が出来ることを 子ども達の様子からしります。
私が柏葉創元の過去を頭の中の映像で見ていた時 オリンピックの聖火のように 巻いた白い紙のような
物の中に火があり、長い棒をつけ タイマツのように持って 練り歩くお祭りのような物がありました。
その事を思い出している時 ふと目を横にやると 床に座り込んで 何かをしている娘たちがいます。
新聞の広告を 細長く丸めて 何かを作っています。
しばらくして 「できたぁ!」
クルクルと細長く巻いた神が 固く棒状に巻かれた紙の先についています。
---えっ 私が 今 心で見ているお祭りの 火のついたタイマツと一緒!?---
その思いは 的中でした。
「ほら広島のお祭りで もっちょったわー。」 「これを持って みんな並んで歩いちょったがね。」
何ということ・・・。私の頭の中の映像で 見えている記憶と 娘たちが見えているものが 同時に
そして 同じものが現れていたのです。
その後娘たちは「ママ広島に帰ろうよ。ママの本がまだあるはずよ。」
そう言いだしたのでした。
前世というのは まず断片的な写真としての 記憶と思っていたことは 大きく違いました。
前世というのは 終わった物語ではなかったのです。
命がなくなるという この世での存在が終了したら 今回生まれた新しい存在である
自我という精神は 魂の中に取り込まれ その中で生き続けていくこととなるのです。
肉体は この世に付随するものですから この世の法則に乗っ取り 生命活動が終わると
分解が起こり 原子へと戻って行きます。
しかし心は 魂の中で生き続けていくのです。
私の中の人格達は みな輪廻転生において 生まれ存在したものです。
生まれ変わりの回数の多い私は かなりたくさんの 人格達が 私の中で共に生きています。
一つ前の人生の 主人公である柏葉創元との内面のやりとりで いろいろな事がわかってきました。
1.引き継がれる思い
私の人生の転機である 2006年6月19日の約ひと月前から 私は 絵画教室に通い始めていました。
私はとりたてて絵を書くのが 好きと言うことではありませんでした。
高校時代は エンピツで スケッチすることは 時々していましたが、その他は 書いたことはありません。
選択授業も 音楽でした。
しかし 何故か美術館に行く機会が多く 自分でも その理由がわかりません。
美術館の雰囲気は あまり好きではありませんが 行くと何かを探しています。
なかなか 心にしっくりとくる絵画と出会えませんが、たまに 心地よいと感じる絵に一枚くらいは出会います。
美術がそれほど好きでない自分が 何故絵に向かうのか?
その理由を掴みに 絵画教室に入ってみたのです。
私は42歳で入会しましたが その教室では一番若く みな 何十年も絵を描いてこられたベテランさん
ばかりでした。私は 何の技術も持たず 緊張しながらその門をくぐりました。
絵の先生に 何が描きたいか聞かれ 一瞬戸惑いましたが 「油絵を。」と答えていました。
鉛筆のデッサンから始まり 静物画 風景画と進んでいきましたが、先生は 油絵の基本的な書き方を
教えて下さった以外 何も教えてくれません。
テーマを告げたら いつもそこにはいないのです。
何かが教われると、思っていた私は 自分の感性を信じるしかないか・・と思い 初心者なりに
描いていきました。
とても先輩諸氏には かなわないだろう・・と 思いながら一枚の風景画を仕上げたら 先輩達が集まって来て
「あなたの絵は いいわぁ。」 「癒される絵だね。」 「何年絵を描いたの?」 「何度か見たくなるから
また持ってきてね。」
私は そのような意見を 言って頂くのは意外で 驚きました。
絵画教室では いくつかの不思議な体験があり すべての会を終了する前にやめましたが
詳しい事は また後日お話します。
不思議な体験が始まってから 子ども達は パラオの人生の次に 広島の原爆体験の人生を
語り始めます。
人は共通の過去を 同時に見る事が出来ることを 子ども達の様子からしります。
私が柏葉創元の過去を頭の中の映像で見ていた時 オリンピックの聖火のように 巻いた白い紙のような
物の中に火があり、長い棒をつけ タイマツのように持って 練り歩くお祭りのような物がありました。
その事を思い出している時 ふと目を横にやると 床に座り込んで 何かをしている娘たちがいます。
新聞の広告を 細長く丸めて 何かを作っています。
しばらくして 「できたぁ!」
クルクルと細長く巻いた神が 固く棒状に巻かれた紙の先についています。
---えっ 私が 今 心で見ているお祭りの 火のついたタイマツと一緒!?---
その思いは 的中でした。
「ほら広島のお祭りで もっちょったわー。」 「これを持って みんな並んで歩いちょったがね。」
何ということ・・・。私の頭の中の映像で 見えている記憶と 娘たちが見えているものが 同時に
そして 同じものが現れていたのです。
その後娘たちは「ママ広島に帰ろうよ。ママの本がまだあるはずよ。」
そう言いだしたのでした。
Posted by 愛 みーこ at
09:37
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2013年06月13日
私の前世
ここからは 自分の前世の記憶について語ります。
人の過去の記憶が心に届けられるようになった頃は まさか自分の前世の記憶に出会っていくなど
思ってもいませんでした。
ある日妙に早朝から 玄関の掃除がしたくなり はりきって掃き掃除をしていた時です。
自分でも そんな自分がおかしく ---こんな朝早くから外の掃除だなんて まるで お坊さんのようだわ--
そう思った時です。
『我は創元なり。』という声が 心に中に聞こえてきました。
---えっ あなたは 誰?---
『私は 柏葉 創元なり』 そして 頭のスクリーンに お坊さんのいでたちの 男性が見えました。
私は どうりで・・・・。と思いました。 来たお客さんに対する話し方が 時折坊さんのようだ・・。
と感じる事があったからです。しかし私は 幼稚園が仏教系だったので そのせいかも・・と思っていました。
自分の前世の心の中で出会い うわぁーと感動しながら掃除を続けていると しゃがんだ時
視界の中に 何かが転がっているのが見えました。
近付いてみると それは 玉虫の死骸でした。
「綺麗!」手のひらに 玉虫の体を乗せました。
羽根が 七色に光って とても綺麗でした。そのすべすべした羽根を 触っていた時です。
「創元お前は 賢いなー。」と聞こえてきました。
それからです。つらつらと その時の人生が思い出されました。
私を とてもよく可愛がってくれていた和尚がいました。
その人は誰? 質問すると 「桜葉 大元。」心が そう答えました。
創元の 子供の頃の映像が見えます。
くりくり頭の元気そうな子どもです。
大元和尚は 私に しょっちゅう質問してきました。
「創元 人をもてなすとは いかなる事か。」 「創元 人をいたわるとはいかなることか。」
私は真面目な子どもでした。 与えられた質問に 真剣に考えを引き出します。
寺の掃除をしたり 手伝いをしたりしながら 考えました。
そして 答えます。自分なりの 気付いた事 考えた事を 和尚さんに話します。
すると和尚さんは 私のくりくり頭を 目を細めて愛おしそうに 撫でまわしながら
「創元お前は 賢い子じゃ。」そう言ってくれました。
和尚さんのすごい所は 子どもの意見なのに 決して咎めたり 間違いとは言いません。
まずは 必ず褒め それから足りない所は教えてくれました。
和尚さんは ちゃんと考えると それがどのような意見であっても まずは受け入れてくれるので
私は喜んで考えたものです。
ある日 出された質問をまた私なりに考え 話した時 いつものように 頭を撫でながら
「創元よく考えたな。ご褒美に これをあげよう。」
そう言って私の右手を取り 手の上に何かを乗せました。
手のひらが ゴショゴショと くすぐったい感じがしました。
見ると 綺麗に七色に光った玉虫です。生きています。 触覚がピーンと元気で 生まれて初めて
玉虫を手の平に乗せた 私は とても感動し 嬉しくてたまりませんでした。
しゃがんだ先に玉虫の死骸があり それを手のひらに乗せた 私の心の中は 吸い込まれるように
過去の風景に飛んで行き それらの出来事を思い出しました。
和尚さんに とてもかわいがられ 育てられた遠い記憶。愛された記憶。ご褒美でもらった大事な玉虫。
---あーなんと 温かい記憶 愛される喜び。---
私は 両手を重ねて 大切に手の平の上に玉虫を乗せたまま 熱い涙がとめどなく溢れてくるのを感じました。
愛された記憶というものは なんと時を超えて温かいものなのか。
過去の事なのに ありがたくて ありがたくて。
そして その懐かしさは 心のずっとずっと 奥深くから 泉のように 溢れ出してくるのです。
胸が熱くてたまりませんでした。
しばらくは 一人涙を流していました。
今でもその玉虫の体は 私の大切な宝物として 大切にとってあります。
過去世の体験は 今に活かされる。
柏葉創元の 過去世の体験で 現在の私に引き継がれて
影響を与えたものについて 次回お話します。
Posted by 愛 みーこ at
18:14
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2013年06月11日
心の目こそ 真実を見る
三女が 学校から帰ってくるなり 「今日ね。Ⅰ先生から 脳科学の話を聞いたよ。」そう言いました。
「へー先生なんて言ってた?。」
「人間の記憶ってね 自分を外から見ているように 残っているんだってー。」
私はそれを聞いて嬉しい気持ちになりました。
自分が前世を思い出した時 府に落ちない事があったからです。
それは 前世の自分の様子・姿を思い出す時 自分の視点ではなく 他の視点から自分の姿を
見ていることです。自分なのに 何故人から見ているように見えるんだろう。
前世の人格達の事を少しお話します。
いろいろ不思議な事が起こり すっかり疲れていた私は 机にうつ伏していました。
---もう 何も感じたくない 考えたくない。普通の人間に戻りたい・・・。---
すると いろいろと感じていた頭の中が 一瞬シーンと静かになりました。
---あー私普通にもどったのかなぁ・・。もう何も感じなくていいんだ!---
その時 「そんなんさぁー」と 関西弁の男の人の声が聞こえてきました。
私は 小学校時代 大阪に住んでいたので すぐに違和感は感じません。
その関西弁の男性が また何かを話し始めようとすると すぐに
「しーっ もう今は何も話しかけたら ダメ。今は静かにさせているのだから。」と
それを咎めるように 強い口調の女性の声が言いました。
そこで ハッと気づいたのです。
この二人の声は 明らかに私の考えではない。私の中に 他の人たちがいる。
過去世というのは 終わった事実の写真が アルバムのように 心に残っているのではなく
過去の人格達は 魂の中で生き続け 存在し続けているのだ。
だから 過去を思い出すということではなく 自分と言うものの前に 存在していたと思っていた人格は
今の自分の中で生き続けている。
そして 現在の私に影響を与え続けている。
過去世を思い出すということは その人格から情報を得ているのである。
過去の映像において その姿を客観的に、見るのは 心の中の第三の目で それを捉えるからである。
唯脳論者と言われる この世で根拠をつかめない事は 信じないという方々は 私の分析を
私自身の脳が作りだした ただの創作の世界だと言うでしょう。
そして輪廻転生などしないのだと。
今から6年目くらい 人生の転換を迎え 科学主義者のような自分に 人は生まれ変わり
たくさんの経験を積んでいくことが 自分の内面から わかっていきました。
それを知り始め 周りの人々に 恐る恐る語り始めた時です。
ある友人が 私にこう話しかけてきました。
「荒川さん。私荒川さんの言う事信じるよ。うちの長男ね、やっとおしゃべりができるように なった
小さい頃 ぼく車にひかれて死んだんだよ・・って 言ったの。」
「私びっくりして、でもね ウソか作り話かは 親は わかるよね。」
「ましてや 2歳すぎの子だよ。」
この世の根拠とはいったいなんでしょう。
科学も 化学も素晴らしい。この世で認められている 事象は 本当に素晴らしいものです。
しかし 電話がない時代に 携帯電話などは 想像もできませんでした。
私が子供の頃 手元の小さな画面でテレビが見れるとは 考えられませんでした。
私にとって生まれ変わりや 魂の存在は すでに科学です。
ただまだ 肉眼や機械などで 特定ができていないだけで れっきとした事実なのです。
生まれ変わりを語るのは 世の中を おもしろおかしく 騒がせたいのではありません。
人は何度も生まれ変わり ずっとずっと 愛は時の彼方から 存在していること
私達は この世だけでなく もっともっと大きなものから そして たくさんのものから愛されていること
そして 人の可能性は 今 人が理解できているものを はるかに超え
人間はさらなる 進化と深化ができる力を 万人が持っている事を知って欲しいのです。
あなたの心の中にある第三の目こそ 人生の真実を見せてくれる
大切な鍵なのです。
「へー先生なんて言ってた?。」
「人間の記憶ってね 自分を外から見ているように 残っているんだってー。」
私はそれを聞いて嬉しい気持ちになりました。
自分が前世を思い出した時 府に落ちない事があったからです。
それは 前世の自分の様子・姿を思い出す時 自分の視点ではなく 他の視点から自分の姿を
見ていることです。自分なのに 何故人から見ているように見えるんだろう。
前世の人格達の事を少しお話します。
いろいろ不思議な事が起こり すっかり疲れていた私は 机にうつ伏していました。
---もう 何も感じたくない 考えたくない。普通の人間に戻りたい・・・。---
すると いろいろと感じていた頭の中が 一瞬シーンと静かになりました。
---あー私普通にもどったのかなぁ・・。もう何も感じなくていいんだ!---
その時 「そんなんさぁー」と 関西弁の男の人の声が聞こえてきました。
私は 小学校時代 大阪に住んでいたので すぐに違和感は感じません。
その関西弁の男性が また何かを話し始めようとすると すぐに
「しーっ もう今は何も話しかけたら ダメ。今は静かにさせているのだから。」と
それを咎めるように 強い口調の女性の声が言いました。
そこで ハッと気づいたのです。
この二人の声は 明らかに私の考えではない。私の中に 他の人たちがいる。
過去世というのは 終わった事実の写真が アルバムのように 心に残っているのではなく
過去の人格達は 魂の中で生き続け 存在し続けているのだ。
だから 過去を思い出すということではなく 自分と言うものの前に 存在していたと思っていた人格は
今の自分の中で生き続けている。
そして 現在の私に影響を与え続けている。
過去世を思い出すということは その人格から情報を得ているのである。
過去の映像において その姿を客観的に、見るのは 心の中の第三の目で それを捉えるからである。
唯脳論者と言われる この世で根拠をつかめない事は 信じないという方々は 私の分析を
私自身の脳が作りだした ただの創作の世界だと言うでしょう。
そして輪廻転生などしないのだと。
今から6年目くらい 人生の転換を迎え 科学主義者のような自分に 人は生まれ変わり
たくさんの経験を積んでいくことが 自分の内面から わかっていきました。
それを知り始め 周りの人々に 恐る恐る語り始めた時です。
ある友人が 私にこう話しかけてきました。
「荒川さん。私荒川さんの言う事信じるよ。うちの長男ね、やっとおしゃべりができるように なった
小さい頃 ぼく車にひかれて死んだんだよ・・って 言ったの。」
「私びっくりして、でもね ウソか作り話かは 親は わかるよね。」
「ましてや 2歳すぎの子だよ。」
この世の根拠とはいったいなんでしょう。
科学も 化学も素晴らしい。この世で認められている 事象は 本当に素晴らしいものです。
しかし 電話がない時代に 携帯電話などは 想像もできませんでした。
私が子供の頃 手元の小さな画面でテレビが見れるとは 考えられませんでした。
私にとって生まれ変わりや 魂の存在は すでに科学です。
ただまだ 肉眼や機械などで 特定ができていないだけで れっきとした事実なのです。
生まれ変わりを語るのは 世の中を おもしろおかしく 騒がせたいのではありません。
人は何度も生まれ変わり ずっとずっと 愛は時の彼方から 存在していること
私達は この世だけでなく もっともっと大きなものから そして たくさんのものから愛されていること
そして 人の可能性は 今 人が理解できているものを はるかに超え
人間はさらなる 進化と深化ができる力を 万人が持っている事を知って欲しいのです。
あなたの心の中にある第三の目こそ 人生の真実を見せてくれる
大切な鍵なのです。
Posted by 愛 みーこ at
20:00
│Comments(0)
2013年06月10日
第三の目
ここ数日のお話は この時ばかりが 不思議な世界ではありませんでした。
毎日毎日に いろいろな出来事が現れ 解いていかねばならない難問だらけの日々でした。
自分の中には 真我という もう一人の自分がいる事。その真我の中には 神我という高次元の意識体
が宿っていること。解きながら 今まで自分の中にはなかった知識が どんどん身についていくのがわかります。
それは楽な事ではありません。
それまでに生きた中で入手した情報とは 全く異なったもので またこの世のルートには 考えられない
まるで 常識くずしのような 出来事ばかりだったからです。
頭の中に映し出される 様々な情報(過去世・現世・未来)は どのように映し出されるのかと
よく質問を受けます。
過去世が見えるようになってから、自分でも 想像と実際の映像とは 何が違うのだろう・・・。
という疑問が湧いてきました。
普通に 何かを思い浮かべて見ます。
私がv人にそれを説明するときは よく 「真っ赤なリンゴが 白いお皿の上に乗っています。
それがあなたの目の前にあります。思い浮かべて下さい。」と言います。
これは 私自身がまず実験を始めた時に やってみたことです。
皆さんも やってみてください。
そうすると ちょうど鼻のまっすぐ先に それが見えませんか?顔の真正面です。
過去世の映像は 右斜め前に映し出されます。そこに集中しようと思ったら 目は伏し目になり
半分閉じ気味になります。
過去の事柄と この世の事象と重なったもの 例えばパラオでの人生の時に関連した 近所にある
慰霊塔等 つまり過去世と現世の繋がりが 肉眼で確認できるものは 脳の中の左斜め前に映し出されます。
未来は 先ほど想像したリンゴの映像の もう少し先の 上の方に映し出されます。
この現世では ない風景や様子などを 映し出す時の 自分の様子と同じものを発見しました。
それは歴史資料館です。 そこに遊びに行ったとき 座禅を組んだ ある僧侶の像がありました。
その像を見た時に あっ!と気づいたのです。
---この目だぁ--- それは 半開眼と言われる状態で 伏し目で 目が細くなっている状態です。
皆さんも よく見たことがありますね。 仏像などのお顔が皆 この半開眼です。
---なるほど そうか 瞑想といわれる この世の次元から 意識を離し 心の世界を見ている時は
半開眼になるんだ!---
心眼といわれる 心の目で何かを見ようとすると 脳内の右斜めのスクリーンに 映像が投影されます。
この映像は 動画ではなく 一枚一枚の写真です。絵画的に見えることもあります。
飯田氏の登場する一連の訓練で 一番よくわかったことは 『自分の内面には 自分を見ている目がある』
と言うことです。 私の思い・考え方・行動 すべてを把握し 私を導くものがある。
それは世界的によく言われる 『第三の眼』と言われるものです。
第三の眼は 脳科学的に 表現されているおもしろい事実があります。
それを明日お話しましょう。
毎日毎日に いろいろな出来事が現れ 解いていかねばならない難問だらけの日々でした。
自分の中には 真我という もう一人の自分がいる事。その真我の中には 神我という高次元の意識体
が宿っていること。解きながら 今まで自分の中にはなかった知識が どんどん身についていくのがわかります。
それは楽な事ではありません。
それまでに生きた中で入手した情報とは 全く異なったもので またこの世のルートには 考えられない
まるで 常識くずしのような 出来事ばかりだったからです。
頭の中に映し出される 様々な情報(過去世・現世・未来)は どのように映し出されるのかと
よく質問を受けます。
過去世が見えるようになってから、自分でも 想像と実際の映像とは 何が違うのだろう・・・。
という疑問が湧いてきました。
普通に 何かを思い浮かべて見ます。
私がv人にそれを説明するときは よく 「真っ赤なリンゴが 白いお皿の上に乗っています。
それがあなたの目の前にあります。思い浮かべて下さい。」と言います。
これは 私自身がまず実験を始めた時に やってみたことです。
皆さんも やってみてください。
そうすると ちょうど鼻のまっすぐ先に それが見えませんか?顔の真正面です。
過去世の映像は 右斜め前に映し出されます。そこに集中しようと思ったら 目は伏し目になり
半分閉じ気味になります。
過去の事柄と この世の事象と重なったもの 例えばパラオでの人生の時に関連した 近所にある
慰霊塔等 つまり過去世と現世の繋がりが 肉眼で確認できるものは 脳の中の左斜め前に映し出されます。
未来は 先ほど想像したリンゴの映像の もう少し先の 上の方に映し出されます。
この現世では ない風景や様子などを 映し出す時の 自分の様子と同じものを発見しました。
それは歴史資料館です。 そこに遊びに行ったとき 座禅を組んだ ある僧侶の像がありました。
その像を見た時に あっ!と気づいたのです。
---この目だぁ--- それは 半開眼と言われる状態で 伏し目で 目が細くなっている状態です。
皆さんも よく見たことがありますね。 仏像などのお顔が皆 この半開眼です。
---なるほど そうか 瞑想といわれる この世の次元から 意識を離し 心の世界を見ている時は
半開眼になるんだ!---
心眼といわれる 心の目で何かを見ようとすると 脳内の右斜めのスクリーンに 映像が投影されます。
この映像は 動画ではなく 一枚一枚の写真です。絵画的に見えることもあります。
飯田氏の登場する一連の訓練で 一番よくわかったことは 『自分の内面には 自分を見ている目がある』
と言うことです。 私の思い・考え方・行動 すべてを把握し 私を導くものがある。
それは世界的によく言われる 『第三の眼』と言われるものです。
第三の眼は 脳科学的に 表現されているおもしろい事実があります。
それを明日お話しましょう。
Posted by 愛 みーこ at
09:40
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2013年06月09日
本当の真実
飯田氏とのやりとりと思われていたことは 神我による 導きだったのです。
最愛のご主人を亡くされた友人の悲しみをなんとか癒してあげたい。
その為に 今は肉体を離れ この世的には 亡くなったと思われている人々の魂と
現在この世に存在する人々との 橋渡しをされている 飯田史彦氏と会わせてあげたい。
そう強く願っていた私だからこそ 飯田氏の名前が娘たちの口から出た時は 科学的根拠の
ない この世物語にすぐに行動をとっていきました。
まったく疑うことものなく・・・。 しかしそれが 神我の目的だったのです。
肉眼で捉えられない心の世界を 自分以外の存在と 絡み合える事実。
テレパシーと 言われる 伝達手段。
思い・考えと言う 己だけの世界と思われていた内面の世界に 他者の思い・考えが
影響を及ぼし コントロールできるということ。
神我は それを私に教えたのです。
娘たちが口々に言った飯田氏が望んだこと。
「飯田先生はねー。カレーが食べたいって・・・。」 「飯田先生は、小さい犬を連れて行くといっているよ。」
「飯田先生は 海がみたいって。」
そして 飯田氏が訪れると聞いて 私がとった行動。
『2階の片付けをし 部屋の模様替えをした。』 『新しい布団と枕を買った』 『2階の部屋にテレビを買った』
上記の内容を 思い出しておいてください。
この神我の操作による一連の出来事は 2006年7月19日に起きました。
何故日にちが 限定できるのかと言うと 三女が書いた飯田氏の似顔絵が 残っており
そこに私は日付を書いておいたからです。
それから数日後 娘たちは夏休みに突入しました。
夏休み第一日目 私は誰かに驚かさせられたように 飛び起き「フェニックス自然動物園へ行こう。」
と叫んでいました。 娘たちに 動物園内にあるプールで泳ぐ支度をさせ 動物園に向かいます。
道中 娘たちに ヘロヘロおじさんについて 質問しました。
「おじさんねー部屋にいるよ。何もしないで そこにいる。」
「そのおじさんを見てどう思う?」 「もったいないと思う。おじさんすごく才能がある人なのに
ずっと家にいる。 もっと外に出ると すごいのに」
しばらく走ってから また「おじさんどうしてる?」と質問すると
「おじさんお腹痛いって」 「コンビニいるよ」
まもなくで動物園に着くと言うところで 私はお腹がいたくなり お手洗いへ行こうと コンビニに寄りました。
そこから出てきて車に乗り込んだところで ---さっき 子ども達が言った おじさんの様子と同じだなぁ
--- ふと そう思いました。
動物園へ着くと まずは流れるプールです。 娘たちは大喜びで ひとしきり遊びました。
かなり疲れたところで お昼の時間になったので 帰ろうと言い 着替えさせました。
プールを出た所で 娘は観覧車に乗ろうよ! と言います。
「ママは乗らないから 乗っておいで」 しかし娘たちは 「ママも一緒に乗ろうよ」
と私の手をひっぱります。 私は乗りたくないのではなく その時仕事をしていなかったので
無駄遣いをしたくなかったのです。
しかし娘たちの誘いに 一緒に乗る事としました。
上に上がるにつれて どんどん林の向こうの海が広がっていきます。
---なんて素晴らしい風景なんだろう!---
広大に広がる海の景色に 心が晴れ晴れとし とても気持ちよくなりました。
そして海のすぐ近くに住んでいるのに 見に来てなかったなぁーと思いました。
観覧車から降りると とても気分がよかったので
「レストランで食事をしよう!」 そう言って 動物園内の レストランへ入りました。
私達4人が頼んだは カレーでした。 レストランでカレーを食べることはなかったので
食べたかったのです。
ここまでで 皆さんなんとなくお気づきですか?
神我が 飯田氏を名乗り 私にいろいろな行動をさせました。
2階の部屋を片付け 模様替えをしました。 新しい布団を一組買いました。
二代目のテレビを買いました。
海を見ました。 レストランでカレーを食べました。
そうです。私が ずっと前からしたい事・・・・。すべては 私が心でいつもしたいと思っていたのに
お金が・・・。とか 体が不調だから・・・。と 自分に いつも言い訳をし やっていなかったことなのです。
それを すべてさせたのです!
そうです。もうお分かりになられましたね。
「飯田先生小さい犬を 連れて行くといっているよ。」
その後 以前から欲しいと思っていた小さい犬。
チワワが 東京からやってくることと なりました。
最愛のご主人を亡くされた友人の悲しみをなんとか癒してあげたい。
その為に 今は肉体を離れ この世的には 亡くなったと思われている人々の魂と
現在この世に存在する人々との 橋渡しをされている 飯田史彦氏と会わせてあげたい。
そう強く願っていた私だからこそ 飯田氏の名前が娘たちの口から出た時は 科学的根拠の
ない この世物語にすぐに行動をとっていきました。
まったく疑うことものなく・・・。 しかしそれが 神我の目的だったのです。
肉眼で捉えられない心の世界を 自分以外の存在と 絡み合える事実。
テレパシーと 言われる 伝達手段。
思い・考えと言う 己だけの世界と思われていた内面の世界に 他者の思い・考えが
影響を及ぼし コントロールできるということ。
神我は それを私に教えたのです。
娘たちが口々に言った飯田氏が望んだこと。
「飯田先生はねー。カレーが食べたいって・・・。」 「飯田先生は、小さい犬を連れて行くといっているよ。」
「飯田先生は 海がみたいって。」
そして 飯田氏が訪れると聞いて 私がとった行動。
『2階の片付けをし 部屋の模様替えをした。』 『新しい布団と枕を買った』 『2階の部屋にテレビを買った』
上記の内容を 思い出しておいてください。
この神我の操作による一連の出来事は 2006年7月19日に起きました。
何故日にちが 限定できるのかと言うと 三女が書いた飯田氏の似顔絵が 残っており
そこに私は日付を書いておいたからです。
それから数日後 娘たちは夏休みに突入しました。
夏休み第一日目 私は誰かに驚かさせられたように 飛び起き「フェニックス自然動物園へ行こう。」
と叫んでいました。 娘たちに 動物園内にあるプールで泳ぐ支度をさせ 動物園に向かいます。
道中 娘たちに ヘロヘロおじさんについて 質問しました。
「おじさんねー部屋にいるよ。何もしないで そこにいる。」
「そのおじさんを見てどう思う?」 「もったいないと思う。おじさんすごく才能がある人なのに
ずっと家にいる。 もっと外に出ると すごいのに」
しばらく走ってから また「おじさんどうしてる?」と質問すると
「おじさんお腹痛いって」 「コンビニいるよ」
まもなくで動物園に着くと言うところで 私はお腹がいたくなり お手洗いへ行こうと コンビニに寄りました。
そこから出てきて車に乗り込んだところで ---さっき 子ども達が言った おじさんの様子と同じだなぁ
--- ふと そう思いました。
動物園へ着くと まずは流れるプールです。 娘たちは大喜びで ひとしきり遊びました。
かなり疲れたところで お昼の時間になったので 帰ろうと言い 着替えさせました。
プールを出た所で 娘は観覧車に乗ろうよ! と言います。
「ママは乗らないから 乗っておいで」 しかし娘たちは 「ママも一緒に乗ろうよ」
と私の手をひっぱります。 私は乗りたくないのではなく その時仕事をしていなかったので
無駄遣いをしたくなかったのです。
しかし娘たちの誘いに 一緒に乗る事としました。
上に上がるにつれて どんどん林の向こうの海が広がっていきます。
---なんて素晴らしい風景なんだろう!---
広大に広がる海の景色に 心が晴れ晴れとし とても気持ちよくなりました。
そして海のすぐ近くに住んでいるのに 見に来てなかったなぁーと思いました。
観覧車から降りると とても気分がよかったので
「レストランで食事をしよう!」 そう言って 動物園内の レストランへ入りました。
私達4人が頼んだは カレーでした。 レストランでカレーを食べることはなかったので
食べたかったのです。
ここまでで 皆さんなんとなくお気づきですか?
神我が 飯田氏を名乗り 私にいろいろな行動をさせました。
2階の部屋を片付け 模様替えをしました。 新しい布団を一組買いました。
二代目のテレビを買いました。
海を見ました。 レストランでカレーを食べました。
そうです。私が ずっと前からしたい事・・・・。すべては 私が心でいつもしたいと思っていたのに
お金が・・・。とか 体が不調だから・・・。と 自分に いつも言い訳をし やっていなかったことなのです。
それを すべてさせたのです!
そうです。もうお分かりになられましたね。
「飯田先生小さい犬を 連れて行くといっているよ。」
その後 以前から欲しいと思っていた小さい犬。
チワワが 東京からやってくることと なりました。
Posted by 愛 みーこ at
10:15
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2013年06月08日
神我という存在
子ども達の不思議な絡み合いは しばらくおいておき、キリスト意識との出会いからお話します。
前回お話しましたように 私は 宗教者ではなく 宗教的生き方は ほとんどしていません。
ほとんど というのは お墓参りに行ったり 実家に帰った時は 父の遺影を眺めながら、
仏壇に 手を合わせたりはするからです。
特別に どの宗教を持つということはしていませんが、仏教にしろ キリスト教にしろ 人間に
とって大切なことを 伝えていることはあると思っています。
その私が キリスト意識というものの存在を知ったのは 6月19日からしばらく後です。
毎日起こる非科学的現象 どんどん心に飛び込んでくる啓示 毎日起こったことを コピー用紙
に書いていき 腕は筋肉痛。体中の興奮状態が収まらず 苦痛との戦い。
そんなある日 ふらふらしながら トイレから出た時です。
トイレのドアと 向かいあった廊下の突き当たりのドアに まばゆいものが光っています。
それは 本来無いものが映っているのではなく 後ろから射す光に包まれるように
私の影が映っているのです。
その影の周りには 朝日新聞の朝日のマークのような放射線状の光が 眩しいくらいに
光っています。それを見て 足が止まります。
---うわぁー 後光のようだー。まるで 神様がいるようだ---
神様はどこ?
ふと周りを探そうと 動いた時 その影も動きました。
---あーー私の中にいるんだ!---
そう思った時 私の心の中の映像に まるですぐそこにいるかのように
イエス・キリストの姿が はっきりと見えました。
髪の毛の やわらかい質感も 優しい肌も 触れそうなくらいです。
全身鳥肌が立ちました。
---うわぁーー 神様って 本当にいたんだ!---
それからイエスは何度も 現れます。
現れては 私と同じポーズをします。
---なんで 真似をするの?---
でも答えてくれません。ただ優しく笑っているだけです。
しかしその意味は 徐々にわかっていきました。
彼はこう言ったのです。
「私にできる事は あなたにもできる事なんだよ。」と。
私は 自分が特別なものになったような気持ちで 嬉しくて仕方がありませんでした。
しかし 確かに交信すると言った意味では 特別なものかもしれませんが 理解が深まるにつれて
すべての命あるものには 神我というものが 宿っていて その高次元の魂から アドバイスを
受けたり 助けられていることを知っていきました。
キリスト意識との交信は それから現在までにいたり 私自身 人生を導いてもらっていますが、
人は皆 知識などいったこの世のわずかな情報の 何千倍もの情報を この神我という叡智から
もらうことができるのです。
ですから命は皆 本当は もっともっと 優れたものであり 崇高で素晴らしい存在です。
神や仏というものは 外側に存在するのではなく すべての命の内側に存在するものだったのです。
ただ人には 魂と言う たくさんの過去の人格達と 神我を含んだものが 宿っていますが、
(人だけではありませんが) 同時に 肉体に付随して 今回あたらしく生まれた自我というものが
存在します。自我は 存在が始まったばかりで 魂に比べれば 思考は幼く またマイナス思考を強く
生み出します。自己中心的な思考を強く持ち、不安を持つのも 自我の存在の特徴です。
そのような三位一体の精神構造を教えてくれたのも 魂という存在の中の神我だったのです。
しかしこのような事柄は 今だからこそ 公言ができます。
それまでは 信頼を失うのではないかと とても怖くて 人には話せませんでした。
次回は 子ども達との 不思議な絡み合いのお話に戻ります。
前回お話しましたように 私は 宗教者ではなく 宗教的生き方は ほとんどしていません。
ほとんど というのは お墓参りに行ったり 実家に帰った時は 父の遺影を眺めながら、
仏壇に 手を合わせたりはするからです。
特別に どの宗教を持つということはしていませんが、仏教にしろ キリスト教にしろ 人間に
とって大切なことを 伝えていることはあると思っています。
その私が キリスト意識というものの存在を知ったのは 6月19日からしばらく後です。
毎日起こる非科学的現象 どんどん心に飛び込んでくる啓示 毎日起こったことを コピー用紙
に書いていき 腕は筋肉痛。体中の興奮状態が収まらず 苦痛との戦い。
そんなある日 ふらふらしながら トイレから出た時です。
トイレのドアと 向かいあった廊下の突き当たりのドアに まばゆいものが光っています。
それは 本来無いものが映っているのではなく 後ろから射す光に包まれるように
私の影が映っているのです。
その影の周りには 朝日新聞の朝日のマークのような放射線状の光が 眩しいくらいに
光っています。それを見て 足が止まります。
---うわぁー 後光のようだー。まるで 神様がいるようだ---
神様はどこ?
ふと周りを探そうと 動いた時 その影も動きました。
---あーー私の中にいるんだ!---
そう思った時 私の心の中の映像に まるですぐそこにいるかのように
イエス・キリストの姿が はっきりと見えました。
髪の毛の やわらかい質感も 優しい肌も 触れそうなくらいです。
全身鳥肌が立ちました。
---うわぁーー 神様って 本当にいたんだ!---
それからイエスは何度も 現れます。
現れては 私と同じポーズをします。
---なんで 真似をするの?---
でも答えてくれません。ただ優しく笑っているだけです。
しかしその意味は 徐々にわかっていきました。
彼はこう言ったのです。
「私にできる事は あなたにもできる事なんだよ。」と。
私は 自分が特別なものになったような気持ちで 嬉しくて仕方がありませんでした。
しかし 確かに交信すると言った意味では 特別なものかもしれませんが 理解が深まるにつれて
すべての命あるものには 神我というものが 宿っていて その高次元の魂から アドバイスを
受けたり 助けられていることを知っていきました。
キリスト意識との交信は それから現在までにいたり 私自身 人生を導いてもらっていますが、
人は皆 知識などいったこの世のわずかな情報の 何千倍もの情報を この神我という叡智から
もらうことができるのです。
ですから命は皆 本当は もっともっと 優れたものであり 崇高で素晴らしい存在です。
神や仏というものは 外側に存在するのではなく すべての命の内側に存在するものだったのです。
ただ人には 魂と言う たくさんの過去の人格達と 神我を含んだものが 宿っていますが、
(人だけではありませんが) 同時に 肉体に付随して 今回あたらしく生まれた自我というものが
存在します。自我は 存在が始まったばかりで 魂に比べれば 思考は幼く またマイナス思考を強く
生み出します。自己中心的な思考を強く持ち、不安を持つのも 自我の存在の特徴です。
そのような三位一体の精神構造を教えてくれたのも 魂という存在の中の神我だったのです。
しかしこのような事柄は 今だからこそ 公言ができます。
それまでは 信頼を失うのではないかと とても怖くて 人には話せませんでした。
次回は 子ども達との 不思議な絡み合いのお話に戻ります。
Posted by 愛 みーこ at
09:00
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2013年06月07日
超自然的ものとの始まり
翌日宮崎空港へ 娘と私 K先生の5人で行きました。
東京発 宮崎を見ています。
東京から到着しました。 娘たちが書いた 飯田氏の似顔絵の顔を探します。
似顔絵は 飯田先生が来る!と 叫んだあと どんな顔? と言って書かせたものです。
それから ずっと後になり 飯田氏の顔をネット上で見た時メガネをかけているところなど
かなり類似していました。
出口からどんどん人がでてきますが、最後の人まで見当たりませんでした。
娘にどこいるのか 尋ねると 「ここにいるよ。だって 頭の中には この風景が見えているんだもん」
娘の描写は 宮崎空港内であることは よくわかります。
もう一便待ってみよう。
しかし 次の便も降りてきませんでした。
「ここにいるはずなんだよね。だって ここの場所が見えてるもん。」
アナウンスで呼び出しをしてもらいましたが、現れません。
次の便は 午後になります。これ以上K先生にお付き合いしていただくわけにはいきません。
「先生すみません。」心は まだ納得しないまま 謝りました。
K先生は 明るく「ウナギご馳走してあげるわよ!行きましょう。」
そう言って下さり ウナギ屋さんで 先生にご馳走になったあと ご自宅へと送り届けました。
帰りの車の中で 娘たちは「おかしいな。ずっとママを見てたんだよ。その人。」
そう言います。「飯田先生 カレーが食べたいって。そして 海がみたいって言ってた。」
「小さい犬も連れて行くっていってたから 楽しみにしちょったんだけど。」
帰宅後娘たちに その後何が見えるか質問し続けました。
建物が見えて そこにその人はいる と言いました。
しかし「その人 顔が変わるんだよね」
「えっ どういうこと?」 「その人ヘロヘロおじさんなんだよ。」
「ヘロヘロおじさんて何?」 「顔をね いろいろ変えられるんだよ。」
「飯田先生じゃないと?」 「今はまた違う顔になってる。」
二階にある子供たちの勉強部屋で 三人それぞれの机に座らせました。
そして見えている場所を 絵に描かせました。
彼女たちの書いた絵は・・・・・・・・・・・・・。
三人とも同じでした。 そこは 2階建て どこかで見たことのある場所。
そうわが家だったのです。
私は もしかして・・・そう思い そのヘロヘロおじさんについて聞きました。
本棚から ある本を取り出して その表紙の顔の絵を見せながら。
「もしかして その顔を自由に変えられる人って この人?」
「そう この人だよ!」
それは 私が子どもの頃 自分で買った 伝記シリーズの一冊でした。
その本は 『キリスト』でした。
子ども達が 自由に顔を変えられる人 自分たちを じっと見ている人 ありえない伝達手段を
ありえる事と知らせてきた人
それは キリスト意識との交信だったのです。
もちろん私達は クリスチャンでもなければ 宗教者でもありません。
娘たちは 3人とも クリスチャン系の幼稚園には 通っていましたが 私は 始めそのような
宗教的幼稚園に通わせる事を 戸惑っていたくらいです。しかし 家から近い事と 先生方の
良い人柄で通わせることとしました。
実家は仏教で 仏壇はありますが 墓参り以外で宗教に触れる事は 子どもの頃からありませんでした。
そんな私が 娘たちが 頭の中に見えている人を 何故キリストの顔か と聞いたのには
不思議な体験が 始まってまもなく 私自身が キリスト意識の存在に対する
超自然的体験をしていたからでした。
東京発 宮崎を見ています。
東京から到着しました。 娘たちが書いた 飯田氏の似顔絵の顔を探します。
似顔絵は 飯田先生が来る!と 叫んだあと どんな顔? と言って書かせたものです。
それから ずっと後になり 飯田氏の顔をネット上で見た時メガネをかけているところなど
かなり類似していました。
出口からどんどん人がでてきますが、最後の人まで見当たりませんでした。
娘にどこいるのか 尋ねると 「ここにいるよ。だって 頭の中には この風景が見えているんだもん」
娘の描写は 宮崎空港内であることは よくわかります。
もう一便待ってみよう。
しかし 次の便も降りてきませんでした。
「ここにいるはずなんだよね。だって ここの場所が見えてるもん。」
アナウンスで呼び出しをしてもらいましたが、現れません。
次の便は 午後になります。これ以上K先生にお付き合いしていただくわけにはいきません。
「先生すみません。」心は まだ納得しないまま 謝りました。
K先生は 明るく「ウナギご馳走してあげるわよ!行きましょう。」
そう言って下さり ウナギ屋さんで 先生にご馳走になったあと ご自宅へと送り届けました。
帰りの車の中で 娘たちは「おかしいな。ずっとママを見てたんだよ。その人。」
そう言います。「飯田先生 カレーが食べたいって。そして 海がみたいって言ってた。」
「小さい犬も連れて行くっていってたから 楽しみにしちょったんだけど。」
帰宅後娘たちに その後何が見えるか質問し続けました。
建物が見えて そこにその人はいる と言いました。
しかし「その人 顔が変わるんだよね」
「えっ どういうこと?」 「その人ヘロヘロおじさんなんだよ。」
「ヘロヘロおじさんて何?」 「顔をね いろいろ変えられるんだよ。」
「飯田先生じゃないと?」 「今はまた違う顔になってる。」
二階にある子供たちの勉強部屋で 三人それぞれの机に座らせました。
そして見えている場所を 絵に描かせました。
彼女たちの書いた絵は・・・・・・・・・・・・・。
三人とも同じでした。 そこは 2階建て どこかで見たことのある場所。
そうわが家だったのです。
私は もしかして・・・そう思い そのヘロヘロおじさんについて聞きました。
本棚から ある本を取り出して その表紙の顔の絵を見せながら。
「もしかして その顔を自由に変えられる人って この人?」
「そう この人だよ!」
それは 私が子どもの頃 自分で買った 伝記シリーズの一冊でした。
その本は 『キリスト』でした。
子ども達が 自由に顔を変えられる人 自分たちを じっと見ている人 ありえない伝達手段を
ありえる事と知らせてきた人
それは キリスト意識との交信だったのです。
もちろん私達は クリスチャンでもなければ 宗教者でもありません。
娘たちは 3人とも クリスチャン系の幼稚園には 通っていましたが 私は 始めそのような
宗教的幼稚園に通わせる事を 戸惑っていたくらいです。しかし 家から近い事と 先生方の
良い人柄で通わせることとしました。
実家は仏教で 仏壇はありますが 墓参り以外で宗教に触れる事は 子どもの頃からありませんでした。
そんな私が 娘たちが 頭の中に見えている人を 何故キリストの顔か と聞いたのには
不思議な体験が 始まってまもなく 私自身が キリスト意識の存在に対する
超自然的体験をしていたからでした。
Posted by 愛 みーこ at
09:58
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2013年06月05日
世にも奇妙な話
「飯田先生が 来るってぇー」三人ほぼ同時に飛び上がりました。
(飯田史彦氏「生きがいの創造」などの著者。大学で経済学の教鞭をとる中で 人生の
大転換を迎え 科学的スピリチュアル人生論を構築していき 人々に愛や人生の意味
等を 説いていく。亡くなった人々の魂との交信により この世に生きている家族にメッセージ
を 伝えたりしてきた人)
飯田氏の事は もちろん娘たちは知る由も ありません。
それなのに 当然叫んだのです。
明日来る。そう言われ どうしよう・・・。と 本気で慌てました。
---私が 友達に 会わせたいと思っていたのだから ちゃんと準備しなくちゃ。---
もちろん あまりにもおかしい話です。根拠も なにもない事が起こったのですから・・・。
---うちに泊まってもらおう。--- ---いや 2階は洗濯物がたくさん干してあるし・・---
私は着替えると 「ちょっと出かけてくる。」そう言って 車に乗り込みました。
ホテルを取ろうと思ったのです。近くのホテルに着くと たくさんの人がロビーにいました。
ある野球のチームが 宮崎を訪れていて そのファンの人達が 部屋を借りるところでした。
聞くと満室です・・と返事が返ってきました。
外はだんだん暗くなっていきます。どこのホテルを借りようかと キョロキョロしながらホテルを
探すと その近くにホテルの看板を見つけました。
入口の近くに行くと なんだか 心が嫌な気持ちになりました。
---ここで ないほうがいいのかなぁ---
もう暗くなる ここに聞いてみよう・・。そう思い駐車場に 車を停めようとしていたら
娘から 携帯にかかってきました。
「ママー飯田先生ね、ホテルは嫌なんだって。」
「えーーなんでーー」 「ホテルは騒がしいからって、それにねー犬を連れて行くって言っちょるよ。」
「どうやって 飯田先生に聞いたと?」
「飯田先生からねー心の電話に かかってきたとよ。」
ここまでだけでも めちゃくちゃな話だと 思いませんか?
飯田先生の事など まったく知らない娘たちが その名を語り
ホテルを取りに行く事など 娘たちにはまったく話していないのに
「ホテルは 嫌だと言っている・・」と 娘。
不思議だなんだと言っている間がありません。
ーーえい うちに 泊まってもらおう。ーー そう決心し 何が必要か 考えました。
ーー2階の部屋を一部屋空けよう。ーー
するとまた娘から 携帯に電話。 「ママ1週間くらいいるって。ご飯は 毎日カレーでいいんだって」
「なんで カレー?」 「好きらしいよ」
ーーなんて 我がままな 人なんだろうーー
1週間と聞いて これは大変と思いました。 一泊ならともかく 1週間となると・・・。
まずは 電気屋さんへ行き テレビを買いました。7万いくらしたのを 覚えています。
そして布団を一組買いました。
娘に携帯から電話をかけ 部屋を片付けておくように言いました。
そして飯田先生の本を紹介してくださった 娘たちの学習教室の K先生に電話し
「明日 飯田先生が来る。K先生も 来られませんか?」と誘いの電話をしました。
この一連の出来事が 私だけが 起こしたことであるならば 私は完全に 思考がおかしくなっている
人です。しかし 娘たちも 同時に不思議の世界の中にいて 私とちゃんと からんでいる。
そして この次の日宮崎空港へ 娘3人と私と K先生の5人 飯田先生に会いに行くこととなるのでした。
(飯田史彦氏「生きがいの創造」などの著者。大学で経済学の教鞭をとる中で 人生の
大転換を迎え 科学的スピリチュアル人生論を構築していき 人々に愛や人生の意味
等を 説いていく。亡くなった人々の魂との交信により この世に生きている家族にメッセージ
を 伝えたりしてきた人)
飯田氏の事は もちろん娘たちは知る由も ありません。
それなのに 当然叫んだのです。
明日来る。そう言われ どうしよう・・・。と 本気で慌てました。
---私が 友達に 会わせたいと思っていたのだから ちゃんと準備しなくちゃ。---
もちろん あまりにもおかしい話です。根拠も なにもない事が起こったのですから・・・。
---うちに泊まってもらおう。--- ---いや 2階は洗濯物がたくさん干してあるし・・---
私は着替えると 「ちょっと出かけてくる。」そう言って 車に乗り込みました。
ホテルを取ろうと思ったのです。近くのホテルに着くと たくさんの人がロビーにいました。
ある野球のチームが 宮崎を訪れていて そのファンの人達が 部屋を借りるところでした。
聞くと満室です・・と返事が返ってきました。
外はだんだん暗くなっていきます。どこのホテルを借りようかと キョロキョロしながらホテルを
探すと その近くにホテルの看板を見つけました。
入口の近くに行くと なんだか 心が嫌な気持ちになりました。
---ここで ないほうがいいのかなぁ---
もう暗くなる ここに聞いてみよう・・。そう思い駐車場に 車を停めようとしていたら
娘から 携帯にかかってきました。
「ママー飯田先生ね、ホテルは嫌なんだって。」
「えーーなんでーー」 「ホテルは騒がしいからって、それにねー犬を連れて行くって言っちょるよ。」
「どうやって 飯田先生に聞いたと?」
「飯田先生からねー心の電話に かかってきたとよ。」
ここまでだけでも めちゃくちゃな話だと 思いませんか?
飯田先生の事など まったく知らない娘たちが その名を語り
ホテルを取りに行く事など 娘たちにはまったく話していないのに
「ホテルは 嫌だと言っている・・」と 娘。
不思議だなんだと言っている間がありません。
ーーえい うちに 泊まってもらおう。ーー そう決心し 何が必要か 考えました。
ーー2階の部屋を一部屋空けよう。ーー
するとまた娘から 携帯に電話。 「ママ1週間くらいいるって。ご飯は 毎日カレーでいいんだって」
「なんで カレー?」 「好きらしいよ」
ーーなんて 我がままな 人なんだろうーー
1週間と聞いて これは大変と思いました。 一泊ならともかく 1週間となると・・・。
まずは 電気屋さんへ行き テレビを買いました。7万いくらしたのを 覚えています。
そして布団を一組買いました。
娘に携帯から電話をかけ 部屋を片付けておくように言いました。
そして飯田先生の本を紹介してくださった 娘たちの学習教室の K先生に電話し
「明日 飯田先生が来る。K先生も 来られませんか?」と誘いの電話をしました。
この一連の出来事が 私だけが 起こしたことであるならば 私は完全に 思考がおかしくなっている
人です。しかし 娘たちも 同時に不思議の世界の中にいて 私とちゃんと からんでいる。
そして この次の日宮崎空港へ 娘3人と私と K先生の5人 飯田先生に会いに行くこととなるのでした。
Posted by 愛 みーこ at
22:58
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2013年06月04日
あり得ない本当の話
いろいろな出来事が毎日起こる度 その意味を 読み取っていくことは大変な事でした。
その時は 息も絶え絶えという感じで 生きていました。
直感で というより それも後で考えれば 魂の計画通り 起こったことを書き留めておいた方が
良いだろう・・と思い 毎日コピー用紙に 起こったことを 書き留めていきます。
集中して書いていると 5~6時間も経過していたことは ざらにありました。
様々な事象を乗り越え 約2か月半でほぼ魂の存在は当たり前に変わり その意とするところも
理解し始めていました。
その存在が何故当たり前になったのかというと、もう あり得ないも 相当数起これば あり得るに
変わらざるを得なくなるからです。
あり得ない現象で もっとも肉眼で捉えられた 非科学的現象は 何も書いていない紙に 誰も書いていないのに
文字が書いてあったことです。
それは あきら という名前のサインでした。
私が親しい友人に この世界から感じたことを話したのは Oさんでした。
飯田史彦氏の本を読み 人は肉体が滅んでも 精神は生きているということを
自分が経験したことと照らし合わせ 納得しつつありました。
ある日Oさんの所へ遊びに行った時 携帯を開いた彼女の顔が 一瞬悲しそうな顔に変わりました。
その一瞬は 本人さえも気付いていなかったと思います。
しかし 私は見逃しませんでした。
彼女の表情が 携帯を開いて一瞬悲しい顔に変わった理由は すぐにわかりました。
彼女の携帯の待ち受けは 彼女の亡くなったご主人のお顔でした。
その数年前に 単身赴任先で突然に亡くなり まだその悲しみは癒されていませんでした。
彼女は いつも明るく振舞って それを感じさせませんでしたが。
その彼女の悲しみから 私は飯田先生に会ってもらえれば ご主人とお話ができるのに・・・
そう思いました。
飯田氏は 彼も劇的な人生の転換から この世を去った方々からお願いされ
現在この世で生き続ける その方々の家族へ メッセージを届けていたからです。
なんとか 飯田先生に会わせてあげたいなーと 強く思いました。
そして 飯田先生と言うお名前が登場する かなり不思議な出来事がある日突然に起こったのです。
ある日の夕方 子ども達は床の所でゴロゴロと寝転がっています。
私は体調がすぐれず 横になっていました。
突然 「飯田先生が 来る!」三人の娘たちは 飛び上がってそう叫びました。
「えーーいつ来るの?」
もちろん 電話がかかってきたわけではありません。手紙が来たわけでもありません。
ましてや 彼女たちは 飯田史彦氏の名前すらも知らなかったのです。
「明日飛行機で来るって!」
毎日不思議なことが起きることが すでに当たり前になりつつあった私は 笑うこともなく
不思議がるわけでもなく ただ慌てて聞きました。
「いつ来るの?」
「明日だってぇー」
SFでも こんなおかしな話はない、そんなお話が幕を開けた瞬間でした。
その時は 息も絶え絶えという感じで 生きていました。
直感で というより それも後で考えれば 魂の計画通り 起こったことを書き留めておいた方が
良いだろう・・と思い 毎日コピー用紙に 起こったことを 書き留めていきます。
集中して書いていると 5~6時間も経過していたことは ざらにありました。
様々な事象を乗り越え 約2か月半でほぼ魂の存在は当たり前に変わり その意とするところも
理解し始めていました。
その存在が何故当たり前になったのかというと、もう あり得ないも 相当数起これば あり得るに
変わらざるを得なくなるからです。
あり得ない現象で もっとも肉眼で捉えられた 非科学的現象は 何も書いていない紙に 誰も書いていないのに
文字が書いてあったことです。
それは あきら という名前のサインでした。
私が親しい友人に この世界から感じたことを話したのは Oさんでした。
飯田史彦氏の本を読み 人は肉体が滅んでも 精神は生きているということを
自分が経験したことと照らし合わせ 納得しつつありました。
ある日Oさんの所へ遊びに行った時 携帯を開いた彼女の顔が 一瞬悲しそうな顔に変わりました。
その一瞬は 本人さえも気付いていなかったと思います。
しかし 私は見逃しませんでした。
彼女の表情が 携帯を開いて一瞬悲しい顔に変わった理由は すぐにわかりました。
彼女の携帯の待ち受けは 彼女の亡くなったご主人のお顔でした。
その数年前に 単身赴任先で突然に亡くなり まだその悲しみは癒されていませんでした。
彼女は いつも明るく振舞って それを感じさせませんでしたが。
その彼女の悲しみから 私は飯田先生に会ってもらえれば ご主人とお話ができるのに・・・
そう思いました。
飯田氏は 彼も劇的な人生の転換から この世を去った方々からお願いされ
現在この世で生き続ける その方々の家族へ メッセージを届けていたからです。
なんとか 飯田先生に会わせてあげたいなーと 強く思いました。
そして 飯田先生と言うお名前が登場する かなり不思議な出来事がある日突然に起こったのです。
ある日の夕方 子ども達は床の所でゴロゴロと寝転がっています。
私は体調がすぐれず 横になっていました。
突然 「飯田先生が 来る!」三人の娘たちは 飛び上がってそう叫びました。
「えーーいつ来るの?」
もちろん 電話がかかってきたわけではありません。手紙が来たわけでもありません。
ましてや 彼女たちは 飯田史彦氏の名前すらも知らなかったのです。
「明日飛行機で来るって!」
毎日不思議なことが起きることが すでに当たり前になりつつあった私は 笑うこともなく
不思議がるわけでもなく ただ慌てて聞きました。
「いつ来るの?」
「明日だってぇー」
SFでも こんなおかしな話はない、そんなお話が幕を開けた瞬間でした。
Posted by 愛 みーこ at
09:00
│Comments(0)
2013年06月03日
啓示は人を救う
『人としての 大切かつ重要な気づきを 高い言葉でもたらせれること』
それが啓示です。 一般的に みなさんが ヒラメキと言われる
直感的 偶発的気づきも もたらせられた啓示であることもあります。
例えばある実験の途中 ヒラメキが降りてきて とても大きな研究などの功績に繋がったとします。
ひらめいたちょっとした出来事だけでなく 実は ひらめいた時点で すでに
研究の功績に繋がる 大切かつ重要な気づきに関するたくさんの情報が 無意識のうちに
その人の中に 届けられているのです。
ですから啓示と言うと 特別な受容体を持っている人だけが受け取れる 特別な魂の交信
ではありません。 私達は 常に啓示を受け取り 自我の自分は気づかないうちに 人生の
転換を行っていたり 大切な情報を得たりしているのです。
啓示は 直感的な場合は ほんの一瞬で その意味を受け取りますが、じっくりと 心の中で諭されるように
話されることもあります。 後者は威厳に満ちた存在が 父が子を諭すように話しかけてきます。
不思議な体験が始まってから 父親のような教師のような そして何よりも
神様のような 言葉がしきりと届けられるようになりました。
例えば 娘たちが前世を話すようになってまもなくのことです。
私は体の変調と共に 今まで自分の人生にはあり得なかったことが 訪れたことに思い悩んでいました。
誰に相談してよいのかも わかりません。 おかしくなったのではと思われ 社会的信用を失うのでは
ないかと 恐れていたからです。
そんなある日 私の母が うちに来ると連絡がありました。
母が到着する少し前 私の心の中に 亡くなった祖母の声が聞こえてきました。
「みーちゃん ばあちゃんのお金を使わんね」
頭のスクリーンには 生前の祖母の部屋が見えました。そして 灰色の小物入れを見せて
「こん中に 通帳と印鑑が入っちょるから みーちゃん使えばよかが」
母がやってきました。 恐る恐る母に 通帳の入った灰色の小物入れを祖母が持っていたか
母に質問しました。
母は 「あー持っちょったよ。」 「今どこにあると?」 「ねーちゃんが 持っちょるはず・・ところで
あんた なんで知っちょると?」
ーーーあー本当だったんだー。---
「あのね さっきね ばーちゃんがね、それを使えって 言ってきたとよ。」と また恐る恐る話しました。
すると母は とても嫌な顔をしました。 そして
「あんただけは まともやと思っておったのに。」と言い 不愉快そうな顔をしました。
私はとても 悲しい気持ちになりました。
----お母さん 私はどちらかというと 真面目に生きてきましたよねー。どうして そう言うの。
どうして信じてくれないの・・。 いや 信じられないのが 当たり前よね。でも せめて
何かあったの?そう 聞いて欲しかった。 お母さん 私は 今とても辛いんです。----
その晩 悲しくて悲しくて たくさん涙が出ました。母親にすら 受け取ってもらえないのだから
誰にもわかって もらるはずがないだろうと・・・・。
次に日の朝 腫れた目で 目覚めました。
その時です。心に ずっしりとした声が聞こえてきました。
『親に信用してもらえない 子どもの苦しみは いかなるものか 胸にとどめ置きなさい』
あーー本当だ。だれに疑われても 子どもというものは 親には信用されたいものなんだ。
私は 子ども達を 絶対に信用してあげよう!!!
私は思わず正座し その大切な事を教えてくれた 何者かに 思わず手を合わせました。
それから私は 子どもたちが 伝えてきてくれる思い出した前世の話やいろいろな事を しっかりと信用し
「ママは ちゃんと信じるからね。だから なんでもお話してね。」
そう言って 毎日彼女たちの話を 心と耳でしっかりと聞き 私達親子の信頼関係は 今まで以上の
深いものへと なっていきました。
そして 私の中には 私を教え導いてくれる 大きな存在がいることに気付いていったのです。
それが啓示です。 一般的に みなさんが ヒラメキと言われる
直感的 偶発的気づきも もたらせられた啓示であることもあります。
例えばある実験の途中 ヒラメキが降りてきて とても大きな研究などの功績に繋がったとします。
ひらめいたちょっとした出来事だけでなく 実は ひらめいた時点で すでに
研究の功績に繋がる 大切かつ重要な気づきに関するたくさんの情報が 無意識のうちに
その人の中に 届けられているのです。
ですから啓示と言うと 特別な受容体を持っている人だけが受け取れる 特別な魂の交信
ではありません。 私達は 常に啓示を受け取り 自我の自分は気づかないうちに 人生の
転換を行っていたり 大切な情報を得たりしているのです。
啓示は 直感的な場合は ほんの一瞬で その意味を受け取りますが、じっくりと 心の中で諭されるように
話されることもあります。 後者は威厳に満ちた存在が 父が子を諭すように話しかけてきます。
不思議な体験が始まってから 父親のような教師のような そして何よりも
神様のような 言葉がしきりと届けられるようになりました。
例えば 娘たちが前世を話すようになってまもなくのことです。
私は体の変調と共に 今まで自分の人生にはあり得なかったことが 訪れたことに思い悩んでいました。
誰に相談してよいのかも わかりません。 おかしくなったのではと思われ 社会的信用を失うのでは
ないかと 恐れていたからです。
そんなある日 私の母が うちに来ると連絡がありました。
母が到着する少し前 私の心の中に 亡くなった祖母の声が聞こえてきました。
「みーちゃん ばあちゃんのお金を使わんね」
頭のスクリーンには 生前の祖母の部屋が見えました。そして 灰色の小物入れを見せて
「こん中に 通帳と印鑑が入っちょるから みーちゃん使えばよかが」
母がやってきました。 恐る恐る母に 通帳の入った灰色の小物入れを祖母が持っていたか
母に質問しました。
母は 「あー持っちょったよ。」 「今どこにあると?」 「ねーちゃんが 持っちょるはず・・ところで
あんた なんで知っちょると?」
ーーーあー本当だったんだー。---
「あのね さっきね ばーちゃんがね、それを使えって 言ってきたとよ。」と また恐る恐る話しました。
すると母は とても嫌な顔をしました。 そして
「あんただけは まともやと思っておったのに。」と言い 不愉快そうな顔をしました。
私はとても 悲しい気持ちになりました。
----お母さん 私はどちらかというと 真面目に生きてきましたよねー。どうして そう言うの。
どうして信じてくれないの・・。 いや 信じられないのが 当たり前よね。でも せめて
何かあったの?そう 聞いて欲しかった。 お母さん 私は 今とても辛いんです。----
その晩 悲しくて悲しくて たくさん涙が出ました。母親にすら 受け取ってもらえないのだから
誰にもわかって もらるはずがないだろうと・・・・。
次に日の朝 腫れた目で 目覚めました。
その時です。心に ずっしりとした声が聞こえてきました。
『親に信用してもらえない 子どもの苦しみは いかなるものか 胸にとどめ置きなさい』
あーー本当だ。だれに疑われても 子どもというものは 親には信用されたいものなんだ。
私は 子ども達を 絶対に信用してあげよう!!!
私は思わず正座し その大切な事を教えてくれた 何者かに 思わず手を合わせました。
それから私は 子どもたちが 伝えてきてくれる思い出した前世の話やいろいろな事を しっかりと信用し
「ママは ちゃんと信じるからね。だから なんでもお話してね。」
そう言って 毎日彼女たちの話を 心と耳でしっかりと聞き 私達親子の信頼関係は 今まで以上の
深いものへと なっていきました。
そして 私の中には 私を教え導いてくれる 大きな存在がいることに気付いていったのです。
Posted by 愛 みーこ at
16:04
│Comments(0)
2013年06月02日
天職の知らせ
他の人の前世の映像を見るだけでなく 自分の過去世に会う日が来るとは 思ってもみませんでした。
まずはそこに至るまでに起こったことを お話します。
魂という意識体が 人の中には存在し 対話ができる事がわかってから
少しずつ 魂とコミニュケーションを取るようになります。
それだけを書くと とても楽しい事のように思われると思います。
しかしそれは 私にとっては 苦しみと怒りでした。
自分の中に勝手に入っていて 私に命じてくる。 とても友好的な存在とは 感じなかったのです。
始めの頃は 魂との交信において 言葉が読み取りにくく 感覚だけでその意思を理解していました。
その感覚で どうやら私の魂は 私が生まれる前からの計画があり 私にそれをさせようとしている。
ということだけは わかりましたが 私は心の中で それに反抗していました。
ーー私の 人生は 私のものでしょーー
魂は 6月19日から 連続して 私に様々なこの世の理論ではない事を体験させ 私を変えていきます。
何者に変えようとしているのか その魂の命じたことは
『おまえの天職は 看護師にあらず お前の天職は 魂の伝道師なり。
人を言葉と行動で導きなさい 真の幸せとは 何かを教えてやるのだ。
そして この世に愛と善の世界を広げなさい。』
『魂の存在を知らせ 生まれ変わりを伝えなさい。』
とてもショックでした。 私は看護師という仕事が大好きで その仕事をしている時が一番活き活きと
していることを 自分は知っていました。
それなのに・・・・。
私は心の中で 断っていました。「私は 普通の人間でいい。普通の家庭人で 普通の母親で。そんな能力
などいらない。」と。
しかし魂は 私が魂の伝道師となるべく 訓練を始めていきました。
その訓練とは 初めに たくさんの啓示を与えてきました。
啓示とは(国語辞書)--人間の力では 知ることのできない宗教的真理を 神が神自身または
天使などの超自然的存在を介して人間へ伝達すること。
宗教的 超自然的存在などと言うと 人は あり得ないと考えから外してしまう事もあるでしょう。
ですから ここでは それを取り除き
「人としての 大切かつ重要な気づきを 高い言葉でもたらせられること」
そう思ってください。
啓示は毎日いろいろな出来事を 私に体験させ 教えとして 気づきを開花させていきます。
まず初めの啓示はこういうものでした。
まずはそこに至るまでに起こったことを お話します。
魂という意識体が 人の中には存在し 対話ができる事がわかってから
少しずつ 魂とコミニュケーションを取るようになります。
それだけを書くと とても楽しい事のように思われると思います。
しかしそれは 私にとっては 苦しみと怒りでした。
自分の中に勝手に入っていて 私に命じてくる。 とても友好的な存在とは 感じなかったのです。
始めの頃は 魂との交信において 言葉が読み取りにくく 感覚だけでその意思を理解していました。
その感覚で どうやら私の魂は 私が生まれる前からの計画があり 私にそれをさせようとしている。
ということだけは わかりましたが 私は心の中で それに反抗していました。
ーー私の 人生は 私のものでしょーー
魂は 6月19日から 連続して 私に様々なこの世の理論ではない事を体験させ 私を変えていきます。
何者に変えようとしているのか その魂の命じたことは
『おまえの天職は 看護師にあらず お前の天職は 魂の伝道師なり。
人を言葉と行動で導きなさい 真の幸せとは 何かを教えてやるのだ。
そして この世に愛と善の世界を広げなさい。』
『魂の存在を知らせ 生まれ変わりを伝えなさい。』
とてもショックでした。 私は看護師という仕事が大好きで その仕事をしている時が一番活き活きと
していることを 自分は知っていました。
それなのに・・・・。
私は心の中で 断っていました。「私は 普通の人間でいい。普通の家庭人で 普通の母親で。そんな能力
などいらない。」と。
しかし魂は 私が魂の伝道師となるべく 訓練を始めていきました。
その訓練とは 初めに たくさんの啓示を与えてきました。
啓示とは(国語辞書)--人間の力では 知ることのできない宗教的真理を 神が神自身または
天使などの超自然的存在を介して人間へ伝達すること。
宗教的 超自然的存在などと言うと 人は あり得ないと考えから外してしまう事もあるでしょう。
ですから ここでは それを取り除き
「人としての 大切かつ重要な気づきを 高い言葉でもたらせられること」
そう思ってください。
啓示は毎日いろいろな出来事を 私に体験させ 教えとして 気づきを開花させていきます。
まず初めの啓示はこういうものでした。
Posted by 愛 みーこ at
09:26
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